徳川家綱の後継者としては、甲府藩主徳川綱重、館林藩主徳川綱吉、そして酒井忠清が推す有栖川宮幸仁親王の三者が鼎立したが、堀田正俊の根回し工作で徳川家綱自身が徳川綱吉に譲位することを決めたため、徳川家綱の逝去後に徳川綱吉が将軍に就いた。徳川綱吉は将軍に就くと直ぐに酒井忠清を罷免し、新たな大老として堀田正俊を迎え、武家諸法度天和令に見られるように忠孝と礼儀を重視した天和の治と呼ばれる善政を推進した。越後騒動と呼ばれる醜い争いが内部で続けられていた越後藩の藩主松平光長を改易したのも、その表れであろう。やがて堀田正俊は若年寄稲葉正休に刺殺された。稲葉正休本人も同席していた阿部正武・戸田忠昌・大久保忠朝らに誅殺されたが、この事件を契機として将軍の居間と老中の御用部屋は遠ざけられ、牧野成貞を初代として伝令役の側用人が設置された。一方、徳川綱吉は好学で知られており、元の授時暦を参考として霊元天皇の御世に貞享暦を開発した渋川春海(安井算哲)を天文方、貞門派の北村季吟を歌学方に任命した。徳川綱吉はこの他、蔵米取の旗本を知行取にする元禄の地方直しを1697年に行っている。
木下順庵の弟子の「火の子」新井白石は、自らが侍講を務めていた甲府藩主徳川綱豊が徳川家宣と改名して将軍となり、側用人間部詮房[まなべあきふさ](後に若年寄)の支持も得たため、幕政の実権を掌握し、徳川家宣・徳川家継の二代に亘って理想主義的な政治改革に努めた。新井白石は勘定奉行荻原重秀を即時罷免し宝永通宝を廃止する一方、1710年には慶長小判の量を半分にした宝永小判(乾字金[けんじきん])を、また1714年には慶長小判と同規格の正徳小判を発行し、貨幣経済の混乱の沈静化を図ったが、江戸時代には元文小判・文政小判・天保小判・安政小判・万延小判などの悪貨が発行され、貨幣経済を混乱させた。他方、新井白石は皇室が財政難のため皇子や皇女を出家させて門跡寺院に入れなければならない状況に陥っていることに着目、1710年に東山天皇の皇子直仁親王に閑院宮家[かんいんのみやけ]を創設させ、徳川綱吉が行った禁裏御料の加増と合わせて朝幕関係の改善を図った。なお伏見宮家・有栖川宮家・閑院宮家・京極宮家(桂宮家)を四親王家と言う。一方、新井白石は1711年に朝鮮使節待遇簡素化を宗義方に伝えると共に、国威発揚のために将軍宛ての国書には対馬藩国書偽造事件以来の朝鮮王子を指す「大君」ではなく「日本国王」を用いるよう朝鮮に要請した。しかしこれは天皇陛下の尊号を冒すものだとして同門の雨森芳洲や林家などの猛反発を受けた。また新井白石は長崎貿易に関して著書『折焚く柴の記』『本朝宝貨通用事略』等で危機感を訴えていたが、1715年には金銀の海外流出を防ぐべく海舶互市新令(長崎新令・正徳新令)を下し、清は年間で船30隻・銀6000貫匁、オランダは船2隻・銀3000貫匁に貿易量を制限した。
江戸後期には農村家内工業が進化した問屋制家内工業、即ち問屋(商業資本家)が家内工業者(直接生産者)に原料や労働手段を前貸しして生産を行わせる形態が、庶民の生活水準の向上に伴う需要の増大に刺激されて全国的に広まった。諸藩は藩の専売品とするためにこれを奨励したため、各地で特産品が生産されるようになった。主な特産品としては、京都西陣織や田舎端物(丹後縮緬・上田縞・結城縞など)のほか足利・桐生・伊勢崎・博多などで生産された絹織物や、久留米絣・小倉織・有松絞・琉球絣などの綿織物、小千谷縮・奈良晒・近江蚊帳・薩摩上布などの麻製品、京染(京都の友禅染)や鹿子絞などの染物、輪島塗・会津塗・南部塗・春慶塗(能代・高山・堺)などの漆器、越前国・播磨国・讃岐国・土佐国・三河国・駿河国・周防国・伊予国などの和紙、各地のお国焼きや京焼(野々村仁清が大成・清水焼と粟田焼に分裂)が知られる陶磁器、灘・伊丹・池田・伏見などで杜氏(出稼労働者)による工場制手工業で造られた酒、薩摩国の黒砂糖、讃岐国の白砂糖(三盆白)、阿波国・和泉国・紀伊国・伊予国などの甘蔗、銚子・野田・京都・播州竜野・紀州湯浅などの醤油、代金後払い方式と薬の補充方式で知られる越中富山の売薬などの医薬品、その他、伊吹もぐさ、備後国の畳表、箱根細工、小田原外郎[ういろう]などがあり、これらの特産品は木村兼葦が著した『日本山海名産図会』や、各地の観光案内書たる『名所図絵』、それに俳諧手引書『毛吹草』などに記されている。なお織機は、室町末期以来の地機・いざり機などに代わり高機が出現した。
岡山藩主池田光政が花畠教場を創立したことを端緒として、各藩は藩士の子弟教育のための藩学(藩校)を創立した。代表的な藩学としては、薩摩藩主島津重豪の造士館、長州藩主毛利吉元の明倫館、土佐藩主山内豊敷の教授館、肥後藩主細川重賢の時習館、米沢藩主上杉綱憲の興譲館、庄内藩主酒井忠徳の致道館、秋田藩主佐竹義和の明徳館、金沢藩主前田治脩の明倫堂、尾張藩主徳川宗睦の明倫堂、水戸藩主徳川斉昭の弘道館、福岡藩主黒田斉隆の修猷館、仙台藩主伊達吉村の養賢堂、そして会津藩主保科正之が稽古場として創立したものを二代目の保科正経が講所とし、それを五代目の松平容頌が整備した日新館などが挙げられる。一方、郷学(郷校)は岡山藩主池田光政が創立した閑谷学校のように庶民教育のためのものと、仙台藩に設置された有備館や摂津国に土橋友直らが設立した含翠堂[がんすいどう]のように藩学の延長なようなものがあった。また庶民は『商売往来』『庭訓往来』などの往来物を用いて寺子屋で学んだ他、町人は心学舎で心学(石門心学)を学んだ。心学は『都鄙問答』『斉家論』などの著書で知られる石田梅岩が町人道徳を説くべく京都で創始した学問であり、江戸に参前舎を創立した中沢道二の他、手島堵庵[てしまとあん]・植松自謙(出雲屋和助)らが出てさらに発展した。
ゴールド=ラッシュの終焉により太平洋の侵略を開始した米国は、捕鯨や中国貿易の基地を求め日本に接触して来た。阿部正弘は東インド艦隊司令長官ビッドルが1846年に浦賀へ来航した際には開国を拒否したが、ビッドルの後任ペリーはサスケハナ号・ミシシッピ号・プリマス号・サラトガ号という4隻の「黒船」を率いて1853年に浦賀へ来航して久里浜に上陸し、浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に第13代大統領フィルモアの国書を突付けた。この際の「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」との狂歌は有名である。国書を受けた阿部正弘は、島津斉彬・伊達宗城・徳川斉昭ら諸大名や朝廷と善後策を協議して自由貿易の拒否を条件とした開国を決定し、1854年に再来したペリーと林復斎の間で日米和親条約(神奈川条約)を締結させた。内容は、下田・箱館の開港、薪・水・食料の米国船への供給、難破船乗組員の救助、米国への最恵国待遇などだったが、同様の内容の日英和親条約や日蘭和親条約も締結された。またロシアのプゥチャーチンは1853年に長崎に来航し、下田で川路聖謨との間に日露和親条約を締結したが、この内容は日米和親条約に準ずるものの他、千島列島での日露間の国境を択捉島・得撫島間と定め、樺太を両国の雑居地とすることを含んでいた。
大老井伊直弼は1858年、井上清直・岩瀬忠震とハリスの間に日米修好通商条約を違勅調印させた。内容は下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事館設置、貿易章程に基づく協定関税制度、領事裁判権受諾などであり、日米和親条約と同じく蘭・英・仏・露とも同様の条約を締結した。安政の五ヶ国条約では領事裁判権と言う治外法権を欧米に与えている上、協定関税制度のために関税自主権も無かった。なお神奈川は東海道沿いだったため横浜が開港し、下田はその半年後に閉鎖された。また京都に近いため兵庫開港勅許は下りず、1867年になって漸く神戸港として開港した。井伊直弼は1860年に日米修好通商条約批准書交換のため正使新見正興と副使村垣範正をポーハタン号に乗船させてロアノークへ向かわせたが、同行した幕府護衛艦咸臨丸(艦長;勝海舟、司令官;木村喜毅)は日本初の太平洋を横断した軍艦である。なお福沢諭吉は木村喜毅の従者として同行した。一方、ロシアは1861年に対馬占領事件を起こして対馬列島の植民地化を図ったが、この愚挙は英国により阻止された。
米通訳官ヒュースケンが1860年に殺害されたことを皮切りに、1861年には『大君の都』の著者である英駐日公使オールコックが東海道を旅行したことに憤慨した水戸浪士が高輪の東禅寺の英国公使館を襲撃するという第一次東禅寺事件を起こし、翌1862年には英国公使館を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が公使館員を殺害した後自殺するという第二次東禅寺事件が発生した。また高杉晋作と久坂玄瑞は同年、夷人狩りとして品川移転直後の英国公使館を焼討した。攘夷論が高揚を見せる中、徳川家茂は攘夷実行を1863年5月10日と定めて孝明天皇に上奏すると共に、諸藩に対しても公布した。なおオールコックは1862年のロンドン万国博覧会に日本の品物を出展している。
攘夷運動の衰微を危惧した中川宮朝彦親王を中心とする尊王攘夷派は、孝明天皇のための大和行幸や伊勢行幸を企て、同時に討幕計画も練った。計画は孝明天皇親征攘夷にまで発展したため公武合体派の薩摩藩は激しく反発し、文久三年八月十八日の政変(文久の政変)を起こして尊皇攘夷派の長州藩士らを京都から追放すると共に、朝廷の三条実美・沢宣嘉[さわのぶよし]・東久世通禧[ひがしくぜみちとみ]・中山忠光ら急進派公卿を長州藩へ追放した。これを七卿の長州落ちと言う。この後、京都は公武合体派雄藩の合議機関たる参預会議が掌握したが、横浜鎖港問題への対応に失敗したため崩壊した。
禁門の変の責任追及という名目で、幕府は下関戦争の直後の1864年に第一次長州征伐を実行し、長州藩に謝罪させた。海援隊(元は亀山社中)の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎(武市瑞山創設の土佐勤皇党党員)は、共に攘夷の無謀を悟った薩長両藩に働き掛け、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允を密会させ、尊皇討幕論を基盤とする薩長連合を結成させた。これに刺激された徳川家茂は第二次長州征伐を断行したが、薩摩藩が幕府軍から離脱した上に長州藩は薩摩藩経由で英国から入手したミニエー銃・ゲベール銃などの新式歩兵銃を奇兵隊などに装備させていたため幕府軍は苦戦し、徳川家茂の大坂城での急死を契機として敗走した。高杉晋作はこの直後に病死した。また『船中八策』を著して公議政体論(天皇中心の雄藩連合政権の樹立)を主張した坂本龍馬は、中岡慎太郎共々京都で1867年に暗殺された。またこの戦いの後に奇兵隊のような諸隊が全国にて結成され、幕府に対し蜂起した。