第9章 江戸時代
 
1,江戸幕府の成立
 
T   .   関ヶ原合戦 [1600年/豊臣秀頼、摂河泉三州65万石の大名に没落]
    .   武断派が北政所、文治派が淀君を担いで抗争を続ける中、徳川家康は石田三成らを掃討するべく石田三成の親友直江兼続を家老とする会津の上杉景勝に上洛を命じ、上杉景勝が直江兼続に所謂「直江状」を書かせて徹底抗戦の構えを見せたことを口実としてこれを討伐するべく下向した。やがて予想通り石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵したため、徳川家康は小山軍議で福島正則・加藤清正・山内一豊ら諸将の協力を得て西上し、美濃国関ヶ原で西軍と激突した。東軍は徳川秀忠が真田昌幸に足留めされていたため兵数では不利だったが、吉川広家が西軍総大将毛利輝元を大坂城に止めさせていた上、小早川秀秋らの変心もあって勝利した。石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら西軍首脳は京都六条河原にて斬首されたが、島津義弘は本領安堵を勝ち得た。
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U   .   江戸幕府の成立 [1603年/徳川家康、征夷大将軍に]
    .   伏見城にて後陽成天皇から将軍職を賜り江戸幕府を開いた徳川家康は、1605年には徳川秀忠に将軍職を譲って徳川家が世襲することを示し、淀君ら大坂方に圧力を加える一方、豊臣秀頼に孫娘の千姫を嫁がせて太閤贔屓の世論を懐柔した。藤堂高虎の普請による江戸城改築工事は1606年に竣工したが、徳川家康は駿府城へ移り駿府政権を樹立、大御所政治を始めた。徳川家康の側近本多正信・本多正純親子の讒言で徳川秀忠の側近大久保忠隣[おおくぼただちか]が処罰されるなど、大御所政治では徳川家康の力が絶対だった。
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V   .   大坂の陣 [1614年〜1615年/豊家滅亡]
    .   徳川家康の側近としては、本多正信・本多正純・後藤庄三郎・西笑承兌・閑室元佶・以心崇伝・林羅山・南光坊天海の他、京都所司代板倉重昌、勘定頭松平正綱、幕府政商茶屋四郎次郎(中島清延)、長崎奉行長谷川左兵衛らが挙げられる。一色秀勝の子の南禅寺住持以心崇伝(金地院崇伝)と林家の祖たる林羅山、それに明智光秀同一人物説があり上野寛永寺や川越喜多院を開いたことで知られる南光坊天海らは1614年、豊臣秀頼が方広寺に奉納した鐘の銘のうち「国家安康」「君臣豊楽子孫殷昌」という文句を曲解して方広寺鐘銘事件を起こし、豊家家老片桐且元を詰問した後、大坂冬の陣を勃発させた。後に和議が締結されたが大坂城は堀を埋められて無力化し、集合していた浪人たちも大野治長ら君側の奸の愚行のため次第に自暴自棄になり、翌年の大坂夏の陣では木村重成・真田幸村・長宗我部盛親・後藤基次・毛利勝永・三好政康・薄田兼相[すすきだかねすけ]・塙直之・明石全登[あかしてるずみ]らの奮戦も空しく大坂方の敗北に終わり、豊臣秀頼と淀君は自害した。なお方広寺鐘銘の作者清韓文英の友人で子の古田重広が大坂方に参加した古田重然は、切腹させられた。大坂の陣で真の士が皆無となり表面上の平和が到来したことを、元和偃武[げんなえんぶ]と言う。
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W   .   徳川家康の死没 [1616年/派閥抗争勃発]
    .   徳川家康の葬儀方法を巡り、以心崇伝(円照院本光国師)は「明神」として祀るべきだと主張したが、南光坊天海(慈眼大師)はそれが豊臣秀吉の「豊国大明神」に通じるとして反発、「東照大権現」とするべきであると主張した。この抗争は諸大名からの信望が厚かった南光坊天海の勝利に終り、徳川家康は「東照大権現」として久能山から日光へ改葬された。なお父の本多正信が徳川家康の没後50日目にさながら後を追うように病死したため本多家の家督を継いだ本多正純は、所謂「宇都宮釣天井事件」という馬鹿げた嫌疑を受け、失脚している。
 
2,幕藩体制
 
T   .   軍事的基盤
    .   将軍の直臣のうち1万石以上の者を大名、1万石未満の者を直参[じきさん]と言う。直参は、将軍への御目見得(謁見)が可能であり知行地(旗本知行地)を支給され知行取と呼ばれる旗本と、将軍への御目見得が不可能であり100俵以下の蔵米を支給され蔵米取と呼ばれる御家人に大別される。諸士法度により統制された直参は、旗本約5000人、御家人約17000人、合計約22000人から構成された。下級旗本と御家人に支給された米のことを扶持米と言い、また旗本の家来と御家人を合わせて俗に旗本八万騎と言う。旗本たちの中には白柄組や神祇組などの旗本奴と呼ばれるチンピラがおり、町人のチンピラである町奴としばしば抗争した。特に1657年に発生した旗本奴水野成之と町奴幡随院長兵衛との抗争は有名である。幕府の軍事力としてはこの直参の他に、非常時に各大名が200石につき5人を供出して編成される非常設の軍隊や、大坂奉行と京都所司代の下に設置された鉄砲奉行、若年寄の下に武官として編成された番方の一種である鉄砲百人組などがある。鉄砲百人組・大番・書院番・小姓組番などの番方の対義語が、奉行・群代・代官などを指す役方である。
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U   .   経済的基盤
    .   幕府直轄領たる天領(御料・御領)は400万石であり、それに旗本知行地の300万石を加算した700万石(全体の25%)が幕府の根本的な基盤である。他に、大久保長安らが収入拡大に尽力した相川金山・青野銀山・縄地銀山・大森銀山・生野銀山・足尾銅山などの直轄鉱山からの収入、江戸・京都・大坂・駿府・奈良・長崎・堺などの直轄都市からの御用金、天領からの本途物成・小物成、大名からの御手伝金・献上金、直参からの小普請役金[こぶしんえききん]、商工業者からの運上金・冥加金・地子銭、三貨の貨幣鋳造権の独占、その他朱印船貿易独占に伴う利益などにより幕府初期の財政は安定していた。
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V   .   幕府の職制
    .   徳川家康の三河時代以来の職制は、月番交代制や合議制などで特定個人への権力集中を防止するため将軍の権限が強く、また戦時体制を兼ねる「庄屋仕立て」である。原則として役職に就任できるのは譜代大名と旗本のみだった。幕府の政務執行機関は老中・大目付・若年寄・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)で構成される評定所である。当初は年寄と称されていた老中は譜代大名から選任される一般政務統轄者であり、常に5人程が就き、大名を監察する大目付の他、大番頭などを従えていた。非常時には12万石以上の譜代大名から大老が選任(初代大老は島原の乱の時の土井利勝)されたが、のべ13人の大老のうち、6名を井伊家が占めた。若年寄は老中補佐と江戸城中の事務を職掌とし、無城の譜代大名が就き、直参を監察する目付の他、鉄砲百人組・書院番頭・小姓組番頭などを従えた。寺社奉行は関八州以外の私領の訴訟や全国の寺社・寺社領の管理を職掌とし、三奉行中唯一譜代大名から選任された。町奉行は江戸町奉行とも称され、月番交代制の南北両奉行所が与力・同心を用いて江戸を統治した。大岡忠相は南町奉行、遠山景元は北町奉行として知られている。勘定奉行は当初は勘定頭と称され、幕府財政・天領民政・天領と関八州旗本領の訴訟を職掌とし、代官を従えた。代官は民政担当の地方と訴訟担当の公事方に分かれるが、いずれも陣屋に居住した。代官の大規模なものが、関東郡代(初代は伊奈忠次)・美濃郡代・飛騨郡代・西国筋郡代などの郡代である。この他、幕府重要直轄地には遠国奉行として京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の他、長崎・奈良・堺・山田・日光・佐渡に奉行が配置され、また戦略上の拠点には大坂城代・二条城代(警備を司る二条定番も設置)・伏見城代・駿府城代などの城代が置かれた。また京都には、京都護衛、朝廷の監察及び連絡、西国諸大名の監察を職掌とする京都所司代が設置された。
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W   .   大名統制
    .   @知行制
    .   大名知行制とは大名が公儀から知行地を預かって管理運営を行う体制のことである。大名は藩主として藩を経営し、将軍の陪臣に相当する藩士を扶養した。また藩では、家老が藩独自の勘定奉行や町奉行を支配し、郡奉行が代官や手代を行使して民政を司った。藩士には地方知行制に基づいて知行地が支給されたり、俸禄制度に基づいて俸禄米・切米・扶持米・給銀などが支給されたりした。なお対馬藩・松前藩はそれぞれ朝鮮人・アイヌ人との交易権を知行とする商場知行制であった。
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    .   A藩・大名の種類
    .   大名は将軍家の親類たる親藩、三河時代以来の家臣たる譜代大名(当初は譜代衆)、その他の外様大名、という三種類に大別される。親藩は尾張家(始祖徳川義直)・紀州家(徳川頼宣)・水戸家(徳川頼房)からなる御三家や、田安家(徳川宗武)・一橋家(徳川宗尹[とくがわむねただ])・清水家(徳川重好)からなる御三卿、その他松平家などで構成され小藩が多かったが、御三家と御三卿からは将軍が輩出された。譜代大名は最大が彦根藩井伊家35万石であるように領地は少なかったが要職に就くことができ、外様大名はその逆で、さらに辺境の地に配置された。
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    .   B武家諸法度
    .   徳川家康・徳川家継・徳川慶喜以外の全将軍が発令(徳川吉宗以降は前代踏襲)した武家諸法度は、明治政府司法省編纂の『徳川禁令考』に記載されている。1615年に徳川秀忠が発令した以心崇伝起草の武家諸法度元和令では、一部例外を除き一大名に一城のみを残した元和一国一城令の徹底、即ち築城禁止・修築許可制なとが定められた他、大名間の私婚が禁止された。また将軍と大名の君臣関係確立のため大幅に遅れて徳川家光が1635年に発令した林羅山起草の武家諸法度寛永令では500石積以上の大型船建造禁止(黒船来航まで継続)や無許可の関所の新設禁止、それに参觀交替(参勤交代)等が制度化された。参觀交替は前田利長が生母芳春院を徳川家康に送って以来慣例として行われていたが、ここで毎年夏の四月に国元・江戸間を大名行列で往来するように制度化されたことにより、軍役や御手伝普請など他の奉公と相俟って大名に財政的打撃を与える結果となった。なお当初は家臣の子弟を証人屋敷に配置する人質制が行われていたが、1665年に撤廃された。武家諸法度に違反した場合、大名は改易や減封、国替(転封)等の罰に処せられた。改易された大名としては広島藩主福島正則・福井藩主松平忠直・高田藩主松平忠輝らが知られている。また最上騒動・伊達騒動・黒田騒動・前田騒動などの御家騒動も続発した。
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X   .   朝廷統制
    .   禁裏御料は当初1万石だったが、徳川家光と徳川綱吉がそれぞれ1万石ずつ加増して3万石となった。江戸幕府は1600年に板倉勝重(徳川家光の乳母に斉藤利三の娘お福[後の春日局]を推挙した人物)を初代の京都所司代として朝廷の監察にあたらせた。また朝幕間の事務連絡を司る武家伝奏(2名)も設置された。朝幕関係は後陽成天皇が豊家贔屓であったため元来悪く、1611年には後陽成天皇が幕府の朝廷人事への干渉に抗議して政仁親王に譲位したが、天皇に学問を勧め改元権を容認するものの武家への官位任免権と紫衣・上人号の勅許権は幕府が掌握する、という禁中並公家諸法度が以心崇伝の起草により1615年に施行されると更に緊迫した。徳川秀忠は1620年に末娘徳川和子を後水尾天皇の中宮として入内させて権威の向上を図る一方、1626年には後水尾天皇や近衛信尋らを招待して示威のための二条城行幸を行ったが、翌1627年には禁中並公家諸法度施行以降の紫衣勅許を無効とした幕府に対し後水尾天皇が激怒し、抗議のため徳川和子との間の皇女興子内親王(明正天皇)に譲位した(紫衣事件)。「天魔外道」以心崇伝は幕府を批判した大徳寺僧沢庵宗彭[たくあんそうほう]を出羽国上山、玉室宗柏を陸奥国棚倉に配流したが、沢庵宗彭は赦免後に江戸へ戻り、品川の東海寺を開いた。
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Y   .   寺社統制
    .   まず全国の寺院は以心崇伝起草の宗派別の諸宗諸本山法度(寺院法度)と言う法令と、各宗共通の諸宗寺院法度により統制され、所有地も将軍家から寄進される御朱印地に限られ、さらに本山・末寺制度により総本山・本山・末寺・末々寺という序列的な階級付けが為された。大目付の配下の宗門改役は宗門改帳を作成して全庶民を何処かの檀那寺の檀家(檀那・檀徒)とし、婚姻・結婚・奉公・転居の際には村役人が発行する追手形と共に檀那寺が出す寺請証文(宗旨手形)の携行を義務付けて、基督教禁止の徹底を図った(寺請制度)。なお宗門改役は、筑前国大島で逮捕されて棄教の後に岡本三右衛門を名乗った伊人耶蘇会士キアラなど、外国人が任命されることもあった。また宗門改帳は後に人別改帳と融合して宗門人別帳となり、実質的な戸籍となった。一方、神社は諸社禰宜神主法度[しょしゃねぎかんぬしはっと]により統制された。
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Z   .   農村の様子と農民の負担
    .   封建支配の末端機関たる郷村制に基づき、郡代・代官の指示で村政を執った村役人の中の最有力者は、名主・組頭・百姓代の村方三役(地方三役)である。名主は西国では庄屋、東北では肝煎とも称され、草分百姓(芝切百姓)が世襲したり入れ札や輪番で選出され、大庄屋(割元庄屋・惣庄屋)の配下についた。組頭は年寄とも称され、名主の業務である年貢割付・年貢収納・村費収支を補佐した。百姓代は村方騒動の多発を受けて設置されたものであり、名主と組頭の業務を監視し、不正を抑制した。農村の主役は検地帳に登録され年貢を負担する本百姓(高持百姓)であり、無高・無役の小作人たる水呑百姓(帳外れ)や隷属的な名子(被官・家抱・門・譜代・下人)らを使用し、本田畑(高請地)や質地・隠田を耕作した。幕府は律令体制下の五保の制に倣い相互監視・相互扶助・連帯責任のための五人組を本百姓5戸1組で設置し、「五人組帳前書」に記載された村掟(村議定)の違反者は葬式と火事消火以外の交流を断たれた(村八分)。なお、結[もやい]と言う田植や屋根葺などの共同作業や、牛馬用飼料確保のための秣場や薪確保のための入会地の管理など重要事項を決定した機関は寄合である。農民の負担としては、本年貢としの本途物成の他、山野河海からの産物に掛かる小物成、蔵前入用(浅草米蔵人夫費)・伝馬宿入用(宿場経費)・六尺給米(江戸城台所人夫費)からなる高掛三役などの高掛物、河川土木工事・日光法会・朝鮮使節接待のための国役、街道沿いの助郷に村高相応の人馬供出を課した助郷役などの夫役(夫米・夫銭で代納も可)などが存在したが、本多正信の『本佐録』に本多正信の言葉として「百姓は財の余らぬ様…」、大道寺友山の『落穂集』に徳川家康の言葉として「百姓共をば死なぬ様生きぬ様…」、本多利明の『西域物語』に神尾春央の言葉として「胡麻の油と百姓は…」とあるように、総じて負担の重いものだった。
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[   .   農民統制
    .   1641年に発生した寛永の大飢饉を受けた幕府は、本百姓の零細化と富農への土地集中を防ぐため1643年に田畑永代売買の禁令を施行したが、これは頼納(質入れ)による事実上の売買は認められていたため効果は低かった。また商品作物増加に伴う貨幣経済の発展と米不足を防ぐため1643年には作付制限令(田畑勝手作の禁令)が施行され、本田畑での五穀以外の商品作物(木綿・煙草など)の栽培が禁止された。1649年には総合的な農民統制と勧農精神・順法心得の啓発のため慶安の御触書が下され、1673年には農民が零細化することを防止するため、名主は20石、一般は10石以下への分割を禁止する分地制限令が発令された。
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\   .   四民制度
    .   四民制度は農本思想と儒教思想に基づくものである。武士は半農半武の郷士を含めても全体の10%程度であるが、切捨御免(無礼打ち)や苗字・帯刀などの権利を有する一方、武士階級内でも厳格な上下の別があった。農民は全体の80%程度を占めた。町人は全体の7%程度を占める都市部商工業者であり、町奉行の配下の町年寄(大坂では惣年寄)・町名主が統率した。職人は師匠(親方)と徒弟(弟子)、商人は主人と奉公人(番頭>手代>丁稚)に分けられ、年季奉公を終えた奉公人は暖簾分けで主人から独立した。大商人は地主・家持で市民権を有する本町人だが、普通の商人は家主から店・土地を借りる店借(店子)・地借であり、棒手振や日雇労働者は大家(家守)が管理する棟割長屋に居住した。室町時代にも犬神人や声聞師が存在していた踐民については、皮革処理や囚獄雑役(牢番)を司るかわた・きよめなどの穢多[えた]は終身であり、鍼・按摩などを生業とする盲目の座頭など遊芸・物乞などを行う非人[ひにん]は足洗いで農工商に復帰できた。備前国の渋染一揆など、踐民は稀に抵抗を起こしたことで知られている。武士は武家町、農民は農村、職人は紺屋町・鍛冶町・大工町・鉄砲町などの職人町、商人は呉服町・肴町・米屋町などの商人町、賤民は被差別部落に居住した。
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]   .   家族制度
    .   家父長制に於いて、家長は当然父親である。跡目相続に関してはこの時代には長子単独相続が一般化し、不肖の子に関してはこれを勘当した。当時は男尊女卑という結構な思想が一般化しており、女は三従の教え(家では父、嫁いだら夫、老いたら子)を遵守することを義務とされ、夫は七去(舅に従わぬ・無子・多言・窃盗・淫乱・嫉妬・悪疾) のいずれかを犯した妻に関してはこれに三行半[みくだりはん]という離縁状を与えて離縁することができた。七去は、貝原益軒が著した『女大学』により一般化した。また家庭では、よこざ・かかざ・客座・木尻というように座る場所も決定されていた。ちなみに鎌倉時代に北条時宗の妻の覚山尼が開創した鎌倉の松岡山東慶寺のみは、横暴な夫に対する妻たちの駆け込み寺としてこれを受け入れていた。
 
3,江戸時代初期の外交
 
T   .   南蛮人と紅毛人
    .   イスパニアの前ルソン総督ドン=ロドリゴが1609年に上総国に漂着したことを機に、徳川家康は京都商人田中勝助を翌1610年にノビスパン(新[ノヴァ]イスパニア;現メキシコ)へ派遣した。徳川家康は貿易を企図していたが、来日した答礼使のビスカイノが貪欲だったため失敗に終わった。また伊達政宗は1613年、慶長遣欧使節として支倉常長を宣教師ルイス=ソテロと共にローマへ派遣して教皇パウロ5世に謁見させたが、通商要求は通らなかった。一方、東インド会社を駆使して植民地拡大を続ける紅毛人が来日したのは1600年にリーフデ号が豊後国の臼杵に漂着したのが端緒であるが、この乗組員である英人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)と蘭人ヤン=ヨーステン(耶揚子)は徳川家康からそれぞれ日本橋と八重洲に江戸屋敷を与えられ、側近として働いた。また三浦按針と耶揚子は、それぞれの国の平戸商館を創設した。後に英国は1623年のアンボイナ事件に敗れたため植民地争奪戦から撤退し、商館もそれに伴い閉鎖された。また平戸オランダ商館も鎖国の最終段階として1641年には長崎の出島へ移された。
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U   .   朱印船貿易
    .   海禁政策を執る明との貿易は、台湾・呂宋[ルソン]・交趾[コーチ]・東京[トンキン]・暹羅[シャム]・太泥[バタニ]・安南[アンナン]・東埔寨[カンボジア]・緬甸[ビルマ]・バタビア(ジャカトラ)などに於いて出会貿易の形式で為された。貿易用の朱印船は幕府の渡航許可状たる朱印状を有する船であるが、1631年以降は老中奉書を有する奉書船であることも条件となった。なお、朱印船の船主は亀井茲矩[かめいこれのり]・有馬晴信・鍋島勝茂・加藤清正・島津家久・松浦鎮信などの大名であることが多かった。白糸・織物・砂糖・象牙などを輸入し銀・銅・鉄・刀剣・硫黄などを輸出する朱印船貿易では、角倉了以[すみのくらりょうい]・角倉素庵・茶屋四郎次郎清次ら京都商人、末吉孫左衛門ら摂津商人、納屋助左衛門(呂宋助左衛門)・今井宗薫ら堺商人、村山等庵・末次平蔵・荒木宗太郎ら長崎商人、角屋七郎兵衛ら伊勢松阪商人などが活躍したが、このうち角倉了以は朱印船を描いた絵馬を清水寺に奉納したことで、また末吉孫左衛門は江戸銀座の創設で知られている。なお当初ポルトガル商人が独占していた白糸取引は、後に幕府により京都・長崎・堺の三ヵ所商人(後に江戸・大坂を加え五ヵ所商人)から構成される糸割符仲間に限定された(糸割符制度・パンカド商法)。また有馬晴信は1609年に長崎でマードレ=デ=デウス号を撃沈したが、これは船長アンドレ=ペッソアが前年に有馬晴信の朱印船の乗組員数十名を惨殺したことに対する報復である。糸割符制度とマードレ=デ=デウス号事件により、ポルトガルの経済的侵略は一時的に沈静化した。一方、朱印船貿易に伴い暹羅のアユタヤ、交趾のツーランやフェフォ、東埔寨のプノンペンやピニャルー、緬甸のアラカンなどには日本人が多く住む日本町が成立した。暹羅で活躍して後に六昆[リゴール]太守[たいしゅ]という地位にまで出世したが、やがて現地の政争に巻き込まれて暗殺された山田長政は有名である。
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V   .   琉球と朝鮮
    .   徳川家康の許可を得た薩摩藩主島津家久は1609年、琉球出兵を断行して尚寧王を降伏させた。琉球を属国とした薩摩藩は中継貿易の利益を搾取する権利と与論島以北の領有権を獲得した。琉球からは将軍交代毎に慶賀使、琉球国王即位毎に謝恩使が派遣されたが、琉球には明からも冊封使が派遣された。琉球には1605年、野国総管により福州から甘蔗(砂糖黍)がもたらされていたが、1609年に儀間真常は甘蔗を原料とした黒砂糖の精製法を開発した。黒砂糖などは進貢船で薩摩藩へ運ばれ財政を潤した。一方、女真族(1616年にヌルハチが後金を建国)の圧迫を受けた李氏朝鮮は1605年に日本と和議を結び、宗義智らの国書偽造工作もあって1607年に国交回復が為された。朝鮮通信使(慶賀使・来聘使[らいへいし])は1617年の大坂鎮圧祝から大御所時代まで前後12回、来日した。日朝間の交易を規定する1609年の慶長条約(己酉約条)では、日本からの使者が将軍と宗氏に限定され、歳遣船も年20隻に制限された。
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W   .   蝦夷地の諸問題
    .   蠣崎季繁[かきざきすえしげ]の配下武将武田信広は、1457年のコシャマインの乱鎮圧の功により蠣崎季繁の養子となった。やがて蠣崎義広の子の蠣崎季広は蝦夷地の中に和人地を確立し、子の蠣崎慶広[かきざきよしひろ]は朝鮮出兵の際に名護屋城に参じたことを豊臣秀吉に賞賛され、蝦夷朱印を受けて蝦夷島主に任ぜられ、やがて1599年には徳川家康に服属して松前藩を興し、松前慶広を名乗った。染退[しぶちゃり]の首長(コタンコロクル)シャクシャインは1669年、和人[シャモ]のアイヌ青年殺害を機に中部・日高・後志[しりべし]を中心にシャクシャインの乱を起こしたが鎮圧され、松前藩はこれを機に商場知行制を場所請負制に変更した。アイヌは1789年のクナシリ・メナシの戦いを最後に、服従した。アイヌの口承文学がユーカラである。
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X   .   禁教
    .   幕府はマードレ=デ=デウス号事件に関連した岡本大八事件で幕内の基督教信者を弾圧したりしていたが、南光坊天海・以心崇伝・林羅山・三浦按針らは、基督教の神前平等思想と封建道徳との相違、旧教国の領土的野心への警戒、宗教一揆に対する危惧、商教分離の確立などを建て前に、本格的な禁教を断行した。1612年、全天領に禁教令(基督教禁止令)を発令した徳川秀忠は翌1613年にそれを全国に拡大、1614年からは基督教徒迫害を断行して高山重友ら基督教信者をマニラやマカオへ追放した。1622年には長崎にて宣教師や信者ら55名が処刑される元和大殉教が発生した。幕府は禁教を確立するため、絵踏(踏絵;1629年に長崎奉行が考案)や寺請制度の徹底を図ったが、隠れキリシタン(潜伏キリシタン)はロザリオやマリア観音像を用いて信仰を続けた。また幕府は禁教徹底のために洋書や漢訳洋書の輸入を禁止した。
    .    
Y   .   島原の乱 [1637年〜1638年/キリシタン・農民の反乱]
    .   元来、肥前国島原は有馬晴信、肥後国天草は小西行長の所領だったため基督教徒が多かったが、島原藩主松倉重政や天草藩主寺沢広高らは基督教信者を弾圧すると共に、幕府に認められるため年貢水増しなどの苛政を執行した。子の松倉勝家・寺沢堅高らもそれを継続したため、島原の民衆約 38000人は益田時貞(天草四郎)を大将として原城址で決起した(実質的総大将は益田好次)。島原の民衆蜂起はやがて天草にも飛び火して拡大したが、長崎奉行榊原職直や立花宗茂・細川忠利・大村純信・有馬豊氏ら諸大名は武家諸法度抵触を恐れて傍観したため、幕府は京都所司代板倉重昌を島原へ派遣した。苦戦を強いられた板倉重昌は老中松平信綱(知恵伊豆)の江戸出発を知り焦燥感に駆られたため元旦に総攻撃を掛け、敢え無く玉砕した。到着した松平信綱は当初蘭船による艦砲射撃を実施したが、反対が多く中止した。約120000人の幕府軍は敵の兵糧切れにより漸く勝利を収めた。事後処理として、苛政により反乱を招いた松倉勝家は切腹、寺沢堅高は改易(後に不服として自害)に処せられた。なお、松平信綱は阿部忠秋・阿部重次・堀田正盛・三浦正次・太田資宗と共に徳川家光六人衆に数えられているが、徳川家光は実弟の松平忠長に切腹を申し付けたことでも知られている。
    .    
Z   .   鎖国
    .   所謂「鎖国」という言葉は、後世の志筑忠雄[しづきただお]がケンペルの『日本誌』を翻訳する際、一節を『鎖国論』と訳したことに由来する。故に5回発令された鎖国令は、厳密に言えば鎖国令という表題のものではない。1633年に発令された第一次鎖国令たる寛永十年令では奉書船以外の海外渡航及び帰国が厳禁された。翌年の寛永十一年令は前年とほぼ同一の内容である。1635年の第三次鎖国令たる寛永十二年令では日本人の海外渡航及び帰国が禁止され、結果的に朱印船貿易は途絶した。翌年の寛永十三年令では貿易に無関係な葡人が国外追放となり、ついに1639年の第五次鎖国令たる寛永十六年令にてかれうたと称される葡船の来航が禁止され、鎖国が完成した。
    .    
[   .   長崎貿易
    .   長崎貿易では金・銀・銅・俵物などを輸出し、朱印船貿易に準じる物を輸入していた。糸割符制度の撤廃後は相対貿易が行われたため貿易量は増大したが、比例して金銀の国外流出量も増大したため、徳川家綱は市法売買仕法、徳川綱吉は定高仕法を施行した。オランダは東インド会社日本支店長たるオランダ商館長(甲比丹[カピタン];任期1年)が仕切る出島オランダ商館にてオランダ通詞(志筑家・吉雄家・本木家・西家が世襲)との交渉により貿易を行い、また甲比丹は世界情勢を記したオランダ風説書を幕府側に提出した。オランダ風説書はオランダ通詞により翻訳され長崎奉行の手を経て将軍に提出される非公開の書物である。一方、清は徳川綱吉の頃から長崎郊外の唐人屋敷で交易したが、オランダ共々輸入品は1698年から長崎会所で一括購入され、入札で国内の商人に販売されるようになった。これは長崎運上金を徴収するための措置である。
 
4,文治政治
 
T   .   慶安事件 [1651年/由比正雪の乱]
    .   1651年に徳川家光が逝去したことに乗じた駿河国の兵学者(軍学者)である由比正雪は、牢人丸橋忠弥らと共に倒幕を企てた。計画は、まず放火を行って江戸を混乱させ、それに乗じて江戸城を制圧し、同時に江戸・大坂・京都などに於いて同志たる牢人が蜂起し、幕府を転覆させようとするものだった。だがこの計画は江戸町奉行石谷貞清[いしがいさだきよ]や老中松平信綱に密告する者が多数あったために露顕してしまい、由比正雪は駿河国で自害し、丸橋忠弥らは江戸で逮捕され処刑された。なお同志を募る由比正雪らに名を利用された紀州藩主徳川頼宣は、自らの機転により危機を脱している。
    .    
U   .   承応事件 [1652年/戸次庄左衛門の乱]
    .   牢人兵学者の戸次庄左衛門と土岐与左衛門は、松平信綱ら老中が江与ノ方(小督姫)の菩提を弔うために増上寺に参拝する際にこれを襲撃しよう、という計画を立案した。この計画は事前に幕府側に察知され、戸次庄左衛門は江戸町奉行神尾春勝・石谷貞清らに逮捕され、やがて処刑された。慶安事件と承応事件により、幕府は牢人(浪人)の発生を防止する方向、即ち従来の武断政治から文治政治(儒教的徳治主義)への転換を推進する方向で政治を行うようになった。
    .    
V   .   寛文の治
    .   徳川家光の遺言で補佐役として付けられた会津藩主の大老保科正之や、武蔵忍城主の阿部忠秋、それに老中松平信綱らに支えられた徳川家綱は、文治政治の先駆けと言える寛文の治を推進した。徳川家綱は後に寛文の二大美事と称される人質制撤廃と殉死の厳禁を行い、戦国的な遺風の排除に努める一方、『御触書寛保集成』に記載されているように末期養子の禁を緩和して牢人の発生を抑制した。末期養子とは無嗣絶家を回避するために大名が死ぬ直前に急養子を迎えることである。一方、1657年には所謂明暦の大火(振袖火事)が江戸に於いて発生した。本郷にある日蓮宗の本妙寺から出た火は瞬く間に江戸全体に広がり、最終的に市街地の55%を焼失して江戸城も延焼、死者は全体で約10万人(この供養のために回向院[えこういん]を建立) を数える大惨事となった。蔵書を殆ど焼失した林羅山は、失意のためか数日後に急逝した。この明暦の大火の後、江戸は計画都市として再建され、また消防機関たる定火消も設置された。寛文の治の末期には前橋藩主の大老酒井忠清が「下馬将軍[げばしょうぐん]」と称される程抬頭し、賄賂政治を行って政治を混乱させた。なお酒井忠清は、雅楽頭系酒井家の出身である。
    .    
W   .   天和の治
    .  

徳川家綱の後継者としては、甲府藩主徳川綱重、館林藩主徳川綱吉、そして酒井忠清が推す有栖川宮幸仁親王の三者が鼎立したが、堀田正俊の根回し工作で徳川家綱自身が徳川綱吉に譲位することを決めたため、徳川家綱の逝去後に徳川綱吉が将軍に就いた。徳川綱吉は将軍に就くと直ぐに酒井忠清を罷免し、新たな大老として堀田正俊を迎え、武家諸法度天和令に見られるように忠孝と礼儀を重視した天和の治と呼ばれる善政を推進した。越後騒動と呼ばれる醜い争いが内部で続けられていた越後藩の藩主松平光長を改易したのも、その表れであろう。やがて堀田正俊は若年寄稲葉正休に刺殺された。稲葉正休本人も同席していた阿部正武・戸田忠昌・大久保忠朝らに誅殺されたが、この事件を契機として将軍の居間と老中の御用部屋は遠ざけられ、牧野成貞を初代として伝令役の側用人が設置された。一方、徳川綱吉は好学で知られており、元の授時暦を参考として霊元天皇の御世に貞享暦を開発した渋川春海(安井算哲)を天文方、貞門派の北村季吟を歌学方に任命した。徳川綱吉はこの他、蔵米取の旗本を知行取にする元禄の地方直しを1697年に行っている。

    .    
X   .   元禄の悪政
    .   徳川綱吉の寵を受けた勘定頭柳沢安忠の子の側用人柳沢保明は、1695年には別邸地を賜って六義園を造営し、さらに1701年には松平姓と「吉」の字を徳川綱吉から拝領して松平吉保(子の柳沢安貞も松平吉里に改名)と名乗り、最終的に甲府15万石を得て大老格となった。一方、無嗣だった徳川綱吉は母の桂昌院が帰依する僧隆光の進言を採用して1685年に生類憐みの令を施行し、猫・魚・鳥・蚊、就中犬を異常に優遇した。犬公方徳川綱吉は1695年、中野・大久保・四谷に犬小屋を設置して徘徊する野犬を養育したが、その莫大な経営費は、亮賢に開かせた護国寺と隆光に開かせた護持院の建築費、それに寛永寺や増上寺の改築費と共にただでさえ鉱山収入の減少により逼迫していた幕府財政を悪化させた。徳川綱吉はこの財政の逼迫を受けて勘定所(勘定方)を設置し、長官たる勘定奉行の補佐役の勘定吟味役に荻原重秀を任命した。荻原重秀は1695年、それまで使用されていた慶長金銀の質を30%落とした元禄金銀を発行し、結果的に生じた出目[でめ]で逼迫した財政を補填した。しかしこの悪貨の発行はインフレを招来し、貨幣経済を混乱させた。また荻原重秀は十文の大銭(宝永通宝)を鋳造したが、これは不便だったためあまり流通しなかった。
    .    
Y   .   赤穂事件 [1701年(元禄十四年)/所謂「忠臣蔵」]
    .   勅使接待役の赤穂藩主浅野長矩[あさのながのり](浅野内匠頭)は、江戸城の松之廊下に於いて日頃の私怨から高家筆頭で典礼指南の吉良義央[きらよしなか](吉良上野介)に斬り付けた。この刃傷事件を受けた幕府は即日浅野長矩の切腹及び赤穂藩の改易を発表した。本来ならば喧嘩両成敗であるにも拘らず吉良義央には何ら罰が課せられなかったため、家老大石良雄ら旧赤穂藩士(赤穂浪士)47人は翌1702年12月14日吉良義央邸を襲撃し、翌日未明にまで亘る死闘の末、吉良義央を討ち取った。この仇討ちを当時の庶民たちは賞賛したが、林信篤・室鳩巣ら肯定派儒学者と荻生徂徠・太宰春台ら否定派儒学者との間では激しい論戦が展開された。結局徳川綱吉は赤穂浪士たちに対し武士の礼をもって切腹を申し渡した。赤穂浪士たちの墓は品川の泉岳寺にある。なお吉良義央の子の吉良義周はこの事件の後、改易された。また米沢藩主上杉綱憲は実父吉良義央を救うべく米沢藩江戸屋敷から救援部隊を派遣しようとしたが、家老に諫止されて中止した。
    .    
Z   .   正徳の治
    .  

木下順庵の弟子の「火の子」新井白石は、自らが侍講を務めていた甲府藩主徳川綱豊が徳川家宣と改名して将軍となり、側用人間部詮房[まなべあきふさ](後に若年寄)の支持も得たため、幕政の実権を掌握し、徳川家宣・徳川家継の二代に亘って理想主義的な政治改革に努めた。新井白石は勘定奉行荻原重秀を即時罷免し宝永通宝を廃止する一方、1710年には慶長小判の量を半分にした宝永小判(乾字金[けんじきん])を、また1714年には慶長小判と同規格の正徳小判を発行し、貨幣経済の混乱の沈静化を図ったが、江戸時代には元文小判・文政小判・天保小判・安政小判・万延小判などの悪貨が発行され、貨幣経済を混乱させた。他方、新井白石は皇室が財政難のため皇子や皇女を出家させて門跡寺院に入れなければならない状況に陥っていることに着目、1710年に東山天皇の皇子直仁親王に閑院宮家[かんいんのみやけ]を創設させ、徳川綱吉が行った禁裏御料の加増と合わせて朝幕関係の改善を図った。なお伏見宮家・有栖川宮家・閑院宮家・京極宮家(桂宮家)を四親王家と言う。一方、新井白石は1711年に朝鮮使節待遇簡素化を宗義方に伝えると共に、国威発揚のために将軍宛ての国書には対馬藩国書偽造事件以来の朝鮮王子を指す「大君」ではなく「日本国王」を用いるよう朝鮮に要請した。しかしこれは天皇陛下の尊号を冒すものだとして同門の雨森芳洲や林家などの猛反発を受けた。また新井白石は長崎貿易に関して著書『折焚く柴の記』『本朝宝貨通用事略』等で危機感を訴えていたが、1715年には金銀の海外流出を防ぐべく海舶互市新令(長崎新令・正徳新令)を下し、清は年間で船30隻・銀6000貫匁、オランダは船2隻・銀3000貫匁に貿易量を制限した。

    .    
[   .   諸藩に於ける文治政治の推進
    .   会津藩主保科正之は朱子学者山崎闇斎を招いて領内の民衆教化を図り、稽古堂(後の日新館)を設置した。また兼六園造営を推進した加賀藩主前田綱紀[まえだつなのり]は、木下順庵と本草学者稲生若水[いのうじゃくすい]を招き古書収集と殖産興業に努めた。一方、岡山藩主池田光政は陽明学者熊澤蕃山[くまざわばんざん]を招き、藩学の花畠道場と郷学の閑谷学校[しずたにがっこう]を開いた。水戸藩主徳川光圀は、明から亡命して来た朱舜水に教えを受け、江戸藩邸に彰考館を設置し、安積澹泊[あさかたんぱく]らを用いて大義名分論に基づく『大日本史』の編纂を開始した。
 
5,社会・経済の発達
 
T   .   新田開発
    .   新田は鍬下年季(検地までの3年間位)のうちは大幅に年貢が減免されたため、著書『民間政要』で知られる田中丘隅[たなかきゅうぐ]が治水工事を推進して下総東金新田・武蔵見沼新田・武蔵野新田などを開発した享保年間をピークとして数多く開発された。深良村名主大庭源之丞[おおばげんのじょう]と江戸の豪商友野与右衛門による箱根用水、玉川庄右衛門・玉川清右衛門兄弟の玉川上水、勘定吟味役井沢為永による見沼代用水(見沼通船堀)、野中兼山の兼山堀、伊奈忠次の備前堀など、灌漑用水路も整備された。新田は、見立代官十分の一法に基づき開発した代官が年貢米の10%を獲得することが出来る代官見立新田と、越後国紫雲寺潟新田・摂津国川口新田・河内国鴻池新田など町人が開発した町人請負新田、それに村請新田(村立新田)や百姓切添新田などに大別できる。
    .    
U   .   農業の発展と農書・地方書
    .   会津藩主保科正之、岡山藩主池田光政、米沢藩主上杉治憲、紀州藩主徳川吉宗らは農業を振興させたことで知られている。風呂鍬に代わり登場した備中鍬を初め、唐箕[とうみ]・唐臼や千歯扱[せんばこき](扨箸[こきばし]に代わり登場;通称「後家倒し」)、竜骨車に代わる踏車の他、千石■[せんごくどおし]や犂などの新しい農具の開発、さらに菜種・綿実などの油糟、干鰯問屋が独占販売した干鰯、石灰、糠[ぬか]などの金肥も使用された。商品作物としては五穀の他に幕府や諸藩が栽培を奨励した四木三草(楮・茶・漆・桑、麻・紅花・藍)や蝋燭の原料となる櫨[はぜ]、それに油菜・綿花・甘蔗・藺草[いぐさ]・煙草・野菜・海苔(浅草海苔など)・果樹(甲州葡萄・紀州蜜柑・予州蜜柑など)も生産された。なお紅花は出羽国、藍は阿波国、茶は山城国と駿河国、藺草は備中国、漆は会津が主な生産地である。
『清良記』 『親民鑑月集』とも言う日本初の農書。宇和郡の武将土居清良の軍記、家臣松浦宗案による農業への提言が記載されている。
『農業全書』 徐光啓の『農政全書』に影響された宮崎安貞の著書。これ以前、岩崎佐久治の『田法記』や佐瀬与次右衛門の『会津農書』など。
『老農夜話』 須田政芳が著した農書。様々な農具を記す。この他、若林宗民の『若林農書』、土屋又三郎の『耕嫁春秋』などが有名。
『農具便利論』 諸藩の農政にも首を突っ込んだ大蔵永常の著書。この後に『広益国産考』を著し、商品作物加工による利益を主張。
『報徳記』 報徳社を結成して報徳仕法(尊徳仕法)を創始した二宮尊徳の著書。過剰なまでの節約を説く。
『農政本論』 水野忠邦に影響を与えた篤農家の佐藤信淵の著書。下総国に土着した大原幽学や『地方凡例録』の著者の大石久敬らが有名。
    .    
V   .   その他の生産業の発達
    .   林業では、山林は山主が管理して杣人[そまびと]などの山子が労働した。木曾の檜、吉野・熊野・飛騨・秋田の杉などが有名である。幕府直轄の御林[おはやし]は材木奉行がこれを管轄した。一方、瀬戸内や熊野などでは地引網や船引網や定置網(大敷網など)といった漁網を使用する網漁法が開発され、上方漁法として発達した。水産業には主に関西の商業資本が進出し漁場の開拓などに努めた。こうして鰯[いわし](九十九里浜の地引網漁・肥前国や房総の八手網漁[やつであみりょう]・伊予国の船引網漁)や鰹[かつお](土佐国の一本釣り)や鰊[にしん](鮭と共に蝦夷)の漁が行われ、伊勢国や紀伊国では勢子船を用いる捕鯨が行われた。鰊は肥料となり、やはり蝦夷地原産の昆布は俵物(いりこ[なまこ加工品]・ほしあわび・ふかのひれ)と共に清へ輸出された。当時の漁業は掟に基づく共同作業が中心の入会漁業であり、網元(網主)・網子(船子)という階級制度が存在していた。また漁民には税として浦役(水主役[かこやく])が賦課された。また製塩業では、この頃から赤穂などで入浜式塩田を用いた製塩が始められた。塩田の所有者を浜主と言い、労働者を浜子と言う。一方、鉱業は貨幣の材料や貿易品として需要が大きかったために発達した。鉱山では前述のものの他、泉屋(住友家)が管理運営した伊予国の別子銅山や、出羽国の阿仁鉱山・院内銀山・尾去沢銅山などが有名である。また鉄は中国山地や釜石鉄山の鉄鉱石と共に出雲国の砂鉄が有名であり、たたら製鉄と呼ばれる技法で精錬が為された。鉱山では坑夫たる掘子(元囚人や人身売買被害者が多い)が労働した。経営者が山師であり、掘大工が採鉱して床大工が精錬した。彼らは金児神[かなこがみ]を崇拝した。
    .    
W   .   手工業の発達
    .  

江戸後期には農村家内工業が進化した問屋制家内工業、即ち問屋(商業資本家)が家内工業者(直接生産者)に原料や労働手段を前貸しして生産を行わせる形態が、庶民の生活水準の向上に伴う需要の増大に刺激されて全国的に広まった。諸藩は藩の専売品とするためにこれを奨励したため、各地で特産品が生産されるようになった。主な特産品としては、京都西陣織や田舎端物(丹後縮緬・上田縞・結城縞など)のほか足利・桐生・伊勢崎・博多などで生産された絹織物や、久留米絣・小倉織・有松絞・琉球絣などの綿織物、小千谷縮・奈良晒・近江蚊帳・薩摩上布などの麻製品、京染(京都の友禅染)や鹿子絞などの染物、輪島塗・会津塗・南部塗・春慶塗(能代・高山・堺)などの漆器、越前国・播磨国・讃岐国・土佐国・三河国・駿河国・周防国・伊予国などの和紙、各地のお国焼きや京焼(野々村仁清が大成・清水焼と粟田焼に分裂)が知られる陶磁器、灘・伊丹・池田・伏見などで杜氏(出稼労働者)による工場制手工業で造られた酒、薩摩国の黒砂糖、讃岐国の白砂糖(三盆白)、阿波国・和泉国・紀伊国・伊予国などの甘蔗、銚子・野田・京都・播州竜野・紀州湯浅などの醤油、代金後払い方式と薬の補充方式で知られる越中富山の売薬などの医薬品、その他、伊吹もぐさ、備後国の畳表、箱根細工、小田原外郎[ういろう]などがあり、これらの特産品は木村兼葦が著した『日本山海名産図会』や、各地の観光案内書たる『名所図絵』、それに俳諧手引書『毛吹草』などに記されている。なお織機は、室町末期以来の地機・いざり機などに代わり高機が出現した。

    .    
X   .   交通・通信の発達
    .  
東海道 京都 53宿(品川〜大津) 100人・100疋を配置。
中仙道(中山道) 草津 67宿(板橋〜守山) 50人・50疋を配置。以下の各街道は25人・25疋。
日光道中 日光 21宿(千住〜鉢石) 千住から宇都宮までの17宿は奥州道中と重複。
奥州道中 白河 27宿(千住〜白河) 厳密には白沢から白河まで10宿。青森までとする説もあり。
甲州道中 下諏訪 44宿(内藤新宿〜上諏訪) 一説では甲府まで38宿と考えられる。
生産地から都市への物資の輸送の必要性から、また参觀交替の影響から、江戸時代には道中奉行の管轄下に街道が整備された。江戸日本橋を起点とする上記の五街道の他、大坂から赤間関までの山陽道(中国街道)、京都から赤間関までの山陰道、信濃追分から直江津までの北国街道、四日市・石薬師間から伊勢神宮までの伊勢街道、門司から長崎までの長崎街道、宮から桑名までの陸路たる佐屋路、宮から垂井までの美濃路、江戸日本橋から水戸までの水戸路など、支線としての脇往環(脇街道)も整備された。街道の宿には、大名が宿泊する本陣や家臣が宿泊する脇本陣の他、一般旅行者のため木賃宿に飯盛女が配置されて発展した旅籠[はたご]、飛脚を司る飛脚問屋、年寄・帳付・馬指などの職員を問屋が管理して公用に伝馬を貸し出す問屋場などが存在していた。街道には目印として榎を植樹した一里塚が置かれた他、東海道の箱根関や新居関、中山道の碓氷関や木曾福島関、日光道中・奥州道中の栗橋関、甲州道中の小仏関など、要所には治安維持と江戸防衛のために関所が設置され、関所手形(通行手形)を持たぬ者、就中「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。また大井川・安倍川・天龍川などには、やはり軍事防衛上の理由から架橋が禁止され、川越人足(天龍川は渡船)が人を対岸まで渡した。関所や川などの障害のために陸路は物資輸送には適さず、主な物品は専ら海路で運ばれた。なお飛脚には公儀の継飛脚や諸大名の大名飛脚(尾張藩・紀伊藩のものを特に七里飛脚と言う)の他、三都飛脚・三度飛脚・定六[じょうろく]・定飛脚と称される町人たちの書状・金銀・小荷物を運ぶための町飛脚などがあった。
    .    
Y   .   運送業の発達
    .   明暦の大火で財を成した河村瑞賢(河村瑞軒)は、1671年に日本海側から津軽経由で江戸へ向かう東廻り航路を開発し、翌1672年には金沢藩が開設していた日本海側から下関経由で大坂へ向かう西廻り航路を改良した。西廻り航路には北前船が就航した。この他の航路としては江戸を発して大坂の木津川口に入る南海路や大坂と長崎を結ぶ西海路などが挙げられる。南海路には当初菱垣廻船が就航していたが、やがてそれよりも小型で迅速な樽廻船が就航し、菱垣廻船を駆逐していった。様々な航路の発展に伴い積荷の収集・運搬を行う廻船問屋(船問屋)も出現した。また河村瑞賢は安治川、角倉了以は富士川・天龍川・高瀬川・保津川(大堰川・桂川)を開いた。高瀬川には罪人護送で知られる高瀬舟、伏見と大坂を結ぶ淀川には過書船や三十石船が就航した。
    .    
Z   .   都市の発達
    .   農村と都市の分離に伴う商品交換の場たる市場の発達や、城下町への武士の集中などにより、封建都市は成長した。100万人もの人口を誇り当時の世界最大都市であった江戸、「天下の台所」「八百八橋」と称された45万人の大坂、そして40万人の京都からなる三都と、町割による四民の在住地の区別や城郭中心の計画都市として知られる城下町の金沢・名古屋・鹿児島・広島・浜松や、港町の堺・長崎・博多・尾道・敦賀・兵庫・新潟・箱館、それに門前町の日光・宇治山田・長野・成田・奈良・琴平などが有名な都市である。また大井川渡しの川留の時に繁盛した島田や金谷を初め、品川・三島・沼津・掛川など主に東海道を中心に宿場町も繁盛した。また当時は農商分離政策から都市部たる町方と農村部たる在方に分かれていたが、問屋制家内工業の影響から在方にも商工業群落が発生した。摂津国平野・河内国富田林・近江国八幡・下野国足利・下野国桐生などのこうした商工業群落を、在郷町と言う。
    .    
[   .   貨幣制度
    .   金貨は両、銀貨は匁、銅貨(銭貨)は文を基本単位としており、1両=50匁=4000文(4貫文)であった。金貨には10両の大判、1両の小判、1/4両の1分金、1/16両の1朱金などの種類が有り、贈答用の大判は大判座、その他の金貨は後藤光次の子孫たる後藤家が仕切る金座で鋳造された。丁銀や豆板銀(小粒・小銀玉)などの秤量貨幣(1匁=3,75g)が主流であり、切って使われたり、便宜上43匁を1枚として丁銀や豆板銀などを43匁分集めて紙で包んだ包み銀が流通していた銀貨は、湯浅常是(大黒常是)の子孫である大黒家が仕切る銀座で鋳造されたが、後に明和五匁銀・南鐐二朱銀・安政一分銀などの量目貨幣(計数貨幣)と呼ばれる定位銀貨が流通し始めると切ることを禁じられた。総じて江戸は金遣い、大坂は銀遣いであった。慶長通宝・寛永通宝・天保通宝などの一文銭を中心とした銭貨は地方の民間業者が受注して製造していた。一方、三貨以外にも諸藩や諸旗本領内でのみ通用する藩札が流通した。藩札は1661年に越前国福井藩が発行したものが端緒であり、乱発されたため次第に不換紙幣と化し、貨幣経済を混乱させた。藩札は、最終的に244藩・14代官所・9旗本領に於いて計約1700種が出回った。
    .    
\   .   町人の活躍
    .   同業者や利害を同じくする者たちが結成した団体を仲間と言い、幕府や諸藩に公認された封建的な仲間のことを特に株仲間(月行事・寄合)と言う。幕府は冥加金や運上金といった旨味に釣られ、当初は結成が禁止されていたが享保の改革にて徳川吉宗が公認し、続く田沼時代には奨励され、天保の改革で禁止されたものの間も無く復活し、最終的に明治維新まで続いた。株仲間の代表的なものとしては、南海路を取り仕切った大坂の荷積問屋たる二十四組問屋と江戸の荷受問屋たる十組問屋が挙げられる。一方、貨幣経済の発達に伴って両替商も活躍した。両替商は、三貨の両替を専門に行う脇両替(銭両替)と、預金・貸付・為替・手形発行などを行う本両替に分けられる。本両替仲間は十人両替により取り仕切られた。本両替の中には、大坂の蔵屋敷の管理を行う蔵元や、やはり蔵屋敷の出納係たる掛屋、江戸の札差などを兼任し、これらで得た資金を元手として大名貸しと言う賭博に近いことなどを盛んに行って巨富を得た豪商もいた。豪商は、幕府と結託した中島家(茶屋)や後藤家のような後藤型豪商と、鴻池家や三井家のように慎重に財を築いた三井型豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文大尽)・奈良屋茂左衛門・淀屋辰五郎のような成金的な紀文型豪商、の三種類に大別できる。ちなみに鴻池家は三和銀行、「現銀安売掛け値無し」の切売商法で知られる三井高利が創始した越後屋呉服店は三越百貨店の前身であり、三井高房は著書『町人考見録』の中で賭博的な大名貸しの危険性を説いたことで知られている。江戸では彼らの他に「近江泥棒と伊勢乞食」、即ち近江商人と伊勢商人が活躍した。
    .    
]   .   流通の発達
    .   蔵物と呼ばれる諸藩の年貢米は大坂の中之島に集中している蔵屋敷に納められた。年貢米はやがて蔵元により二十四組問屋に納められた。手工業者や農民の生産した特産品などは仲買と問屋を経て、やはり二十四組問屋に納入された。二十四組問屋は南海路を用いて江戸の十組問屋に商品を輸送した。蔵米取の旗本や御家人たちは札差に蔵米を売却したが、札差が得た米は十組問屋に納められた。二十四組問屋と十組問屋に集中した商品は、仲買により一旦購入され、仲買はそれを市場に於いて小売に売却した。そして小売が、一般庶民や武士たちに品物を販売したのである。こうした流通の進歩に伴い市場も発達したが、代表的な市場としては、大坂では大阪三大市場と称される雑喉場魚市[ざこばうおいち]・堂島米市場・天満青物市[てんまあおものいち]や天王寺牛市、江戸では日本橋魚市や神田青物市、その他各地で開かれた馬市などが挙げられる。またこの頃、米相場などでは信用取引たる延取引が行われ、未決済でも商品を取引する空物取引が発生した。
 
6,学問・思想の発達
 
T   .   儒学
    .   @儒学の概要
    .   格物致知・理気二元論を説き、尊卑上下の別・忠孝・礼儀などを重んじる朱子学は、封建的な支配に最適な学問であったため、朝鮮出兵以来の「東方の小朱子」と称される朝鮮儒学者李退渓らの思想の流入と相俟って特に江戸時代に入って発達した。しかし朱子学は幕府の御用学問として形式化したため、これに対する反発のような形で新たに流入した明の陽明学(知行合一を主張する王陽明が創始した学問)や清の孝証学が発達した。また朱子学と陽明学の両方を批判し、孔子や孟子の真意を探求しようとする古学や、これらの良い箇所のみを融和した折衷学も興隆した。
    .    
    .   A朱子学−京学派
    .  
林羅山 法号は林道春、実名は林信勝。『羅山文集』で知られる林家の祖。石川丈山・松永尺五らと共に、近世朱子学の祖と目される播磨国出身の相国寺僧藤原惺窩に学ぶ。徳川家康から徳川家綱まで四代に亘り侍講(将軍専属教師)を務め、後の昌平黌の元となる家塾を開く。
林鵞峰 法号は林春斎、実名は林春勝。林羅山の子。父と共に歴史書『本朝通鑑』を著す。
林鳳岡 法号は林春常、実名は林信篤。湯島聖堂大成殿の完成時に徳川綱吉から初代大学頭に任命され、儒仏分離を推進。
木下順庵 松永尺五の門弟。前田綱紀に仕え、『錦里文集』を著す。門弟のうち、特に新井白石・雨森芳洲・室鳩巣・松浦霞沼・向井滄洲・服部寛斎・南部南山・三宅観瀾・祇園南海・榊原篁洲らは、木門十哲と称されて有名。
新井白石 木門十哲の一人。徳川家宣・徳川家継の侍講。九変五変説に基づき武家政権への移行と徳川幕府の正当性を主張した史論書『読史余論』や自叙伝『折焚く柴の記』、古代史研究法を纏めた『古史通』、諸藩・諸大名の系譜を纏めた『藩翰譜』、国語語源辞書『東雅』などの著作で有名。西洋の地理を纏めた『采覧異言』と西洋の歴史・技術・天文を纏めた『西洋紀聞』は屋久島で逮捕された伊人ヨハン=シドッチから得た情報に基づくものだが、禁制中の基督教に触れる部分があったため非公開とされた。
室鳩巣 木門十哲の一人。徳川吉宗の侍講。『六諭衍義大意』『駿台雑話』『兼山麗沢秘策』などの著作で有名。門弟は青地兼山ら。ちなみに後に洋学と儒学を融合させ条理学を提唱した三浦梅園は室鳩巣の流れを汲む儒者であり、帆足万里・広瀬淡窓と共に豊後三大家と称される。
三宅観瀾 木門十哲の一人だが南学派の浅見絅斎の門弟となり、後に水戸学に傾倒して彰考館の総裁に就任。
    .    
    .   B朱子学−南学派・水戸学派
    .  
山崎闇斎 山崎敬義・山崎垂加とも言う。土佐藩家老野中兼山らと共に海南学派の祖・南村梅軒の弟子の谷時中の門弟。会津藩主保科正之に仕える。門弟として有名な崎門三傑(浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎)らは崎門学派を構成。一方、吉川神道の創始者吉川惟足に影響を受けて垂加神道を創始、『垂加草』などを著す。神道での門弟としては谷秦山が著名。
岡田寒泉 京学派の柴野栗山・尾藤二洲と共に寛政の三博士と称される。しかし古賀精里に取って代わられる。
安積澹泊 朱舜水の門弟。徳川光圀らと共に『大日本史』の編纂を開始。『大日本史』は後小松天皇までを大義名分論で貫いたもの。神功皇后を皇位から除き、大友皇子を弘文天皇として認め、吉野朝を正統とした。水戸学・尊皇攘夷運動の母胎。最終的に明治時代の栗田寛が完成。
藤田幽谷 立原翠軒の門弟。『大日本史』を編纂する彰考館の総裁、『正名論』を著して水戸学を確立。子の藤田東湖は熱烈な尊皇攘夷論者であり、徳川斉昭の下で藩政改革に尽力。門弟の会沢正志斎(会沢安)は藤田東湖と共に尊皇攘夷運動を行い、『新論』『及門遺範』などを著す。
    .    
    .   C古学
    .  
山鹿素行 小幡景憲の門弟で、聖学派の祖。『聖教要録』で朱子学を批判したため赤穂へ流されたが、配流中にも日本主義を提唱した『中朝事実』や武家政治の由来を説いた『武家事紀』などを著す。他方、武士道を大成した兵学者としても知られる。大石良雄は山鹿流。
伊藤仁斎 『論語古義』『孟子古義』『中庸発揮』などを著して原典批判を展開、京都に古義堂(堀川塾)を開設して堀川学派(古義学派)の祖となる。子の伊藤東涯は日本と中国の諸制度を研究・比較して『制度通』を著し、堀川学派を大成。伊藤東涯の子の伊藤東所も著名。
荻生徂徠 江戸の茅場町に園塾を開設し、原典重視の古文辞学派(園学派)を開く。徳川吉宗の諮問に答え、参觀交替廃止・礼楽制度樹立・武士土着による「治国平天下」を主張した『政談』を著し、徳川吉宗の政治顧問となる。『太平策』は『政談』の抜粋。著作『経済録』の中で農本主義と藩営専売の必要性を訴えた太宰春台の他、服部南郭らが門弟として挙げられる。
    .    
    .   D陽明学・折衷学・考証学
    .  
中江藤樹 近江聖人。藤樹書院を開設し、『翁問答』を著す。門弟の熊澤蕃山(熊澤了介)は池田光政に仕えたが、著作『大学或門』の中で極端に重農主義的な論調で武士の帰農や参觀交替緩和などを訴えたため、幕府から弾圧された。
中井甃庵 大坂の有力町人と共に懐徳堂を創設、初代学主に師の三宅石庵を迎える。子の中井竹山は松平定信に経世論『草茅危言』を提出、その弟の中井履軒は後に折衷学に傾倒。山片蟠桃・佐藤一斎らは中井竹山の門弟。佐藤一斎の門弟が佐久間象山、さらにその門弟が吉田松陰。
片山兼山 服部南郭の門弟。折衷学を樹立。同時期、井上金峨や豊後国で咸宜園を開き高野長英・村田蔵六らを教育した広瀬淡窓らが活躍。
松崎慊堂 昌平坂学問所で林述斎に学んだ考証学者。友人の狩谷斎や日向国飫肥藩の儒官安井息軒も考証学者として有名。
    .    
U   .   教育
    .  

岡山藩主池田光政が花畠教場を創立したことを端緒として、各藩は藩士の子弟教育のための藩学(藩校)を創立した。代表的な藩学としては、薩摩藩主島津重豪の造士館、長州藩主毛利吉元の明倫館、土佐藩主山内豊敷の教授館、肥後藩主細川重賢の時習館、米沢藩主上杉綱憲の興譲館、庄内藩主酒井忠徳の致道館、秋田藩主佐竹義和の明徳館、金沢藩主前田治脩の明倫堂、尾張藩主徳川宗睦の明倫堂、水戸藩主徳川斉昭の弘道館、福岡藩主黒田斉隆の修猷館、仙台藩主伊達吉村の養賢堂、そして会津藩主保科正之が稽古場として創立したものを二代目の保科正経が講所とし、それを五代目の松平容頌が整備した日新館などが挙げられる。一方、郷学(郷校)は岡山藩主池田光政が創立した閑谷学校のように庶民教育のためのものと、仙台藩に設置された有備館や摂津国に土橋友直らが設立した含翠堂[がんすいどう]のように藩学の延長なようなものがあった。また庶民は『商売往来』『庭訓往来』などの往来物を用いて寺子屋で学んだ他、町人は心学舎で心学(石門心学)を学んだ。心学は『都鄙問答』『斉家論』などの著書で知られる石田梅岩が町人道徳を説くべく京都で創始した学問であり、江戸に参前舎を創立した中沢道二の他、手島堵庵[てしまとあん]・植松自謙(出雲屋和助)らが出てさらに発展した。

    .    
V   .   国学
    .  
北村季吟 『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』などの著書で知られ、初代歌学方を務める。国学は古典研究による民族精神の究明を目標とした学問であり、その復古思想は後の尊皇運動に影響を与えた。この他にも、歌論書『梨本集』で歌学の革新を訴えた戸田茂睡や、『万葉集管見』を著した下河辺長流、徳川光圀の下で『万葉代匠記』を編纂した契沖らも有名。なお国学の語は荷田春満の頃から使用された。
荷田春満 契沖の門弟。『創学校啓』を著して徳川吉宗に国学の設置を献策。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に「国学の四大人」と言う。
賀茂真淵 荷田春満の門弟。本居宣長の師。田安宗武の家臣。『国意考』『万葉考』などで復古思想を提唱。この他、『比古婆衣』の著者伴信友も有名。
本居宣長 賀茂真淵の門弟。自宅の鈴の屋で初心者用の『うひ山ぶみ』を用いて講義する一方、『古事記伝』『源氏物語玉小櫛』などを著す。
平田篤胤 本居宣長死後の門人。『古史徴』を著し、儒仏に毒されぬ純粋な古道を示して惟神[かんながら]の道の復活を説く復古神道を創始。
塙保己一 和学研究所を創設して国史講義と史料編纂を行う。林家と協力して編纂した古代以来の古書の集大成『群書類従』は特に貴重。
    .    
W   .   蘭学(蛮学・洋学)
    .   @概要・外国人の活躍
    .   『日本誌』を著した独人ケンペルや『日本植物誌』を著した瑞人ツンベルグ、さらに高野長英・伊東玄朴らを輩出した鳴滝塾の創設者である独人シーボルトら多くの外国人の活躍により発達した蘭学は、自然科学中心の学問である。幕府は当初蘭学を封建体制補強のための実学として奨励したが、やがて西洋の近代化を痛感した蘭学者たちが封建的為政者たる幕府を批判し始めたため、次第に弾圧を展開した。
    .    
    .   A医学者・本草学者の活躍
    .  
山脇東洋 吉益東洞の友人。後藤艮山から古医方を学び、初の解剖図録『蔵志』を著す。古医方は漢代の張仲景の説に傾倒した名古屋玄医が提唱。
杉田玄白 江戸の小塚原で死刑囚の腑分けを行った経験を活かし、青木昆陽の門弟前野良沢と共に独人クルムスが著した『解剖図譜』の蘭訳『ターヘル=アナトミア』を翻訳、平賀源内に洋画を学んだ小田野直武に表紙絵を描かせて『解体新書』を完成。後に回想録『蘭学事始』を著す。
桂川甫周 『ターヘル=アナトミア』の翻訳に参加。後にロシアから帰国した大黒屋光太夫を尋問して『北槎聞略』を編纂。
大槻玄沢 杉田玄白と前野良沢の門弟。家塾芝蘭堂を開設、オランダ正月(太陽暦新年会)を開催。蘭学入門書『蘭学階梯』を著す。
稲村三伯 宇田川玄真と協力して日本初の日蘭対訳辞書『波留麻和解』を著す。桂川甫周は『ヅーフハルマ』を『和蘭字彙』として出版。
華岡青洲 日本初の麻酔薬たる麻沸湯を用いて乳癌手術を行う。この他、桂川甫周の門弟で内科書『西説内科撰要』を著した宇田川玄随らが有名。
緒方洪庵 長与専斎を塾頭に据えて適々斎塾(適塾)を創設し、橋本左内・佐野常民・大鳥圭介・福沢諭吉・大村益次郎らを教育。
伊東玄朴 肥前藩主鍋島直正の保護の下、牛痘ワクチン接種のための種痘館(後の種痘所→医学所→西洋医学所→大学東校)を神田に開設。
貝原益軒 『大和本草』『女大学』の著者。「接して漏らさず」の言で有名。なお本草学は『本草綱目』を著した明の李時珍に始まる薬物学である。
稲生若水 前田綱紀の下で『庶物類纂』を著す。門弟の野呂元丈は徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、『阿蘭陀本草和解』を著す。
青木昆陽 徳川吉宗の命令で蘭語・蘭学を修得する一方、甘藷栽培に取り組み『甘藷記』『蕃薯考』を著す。
飯沼慾斎 リンネの分類法に基づいた『草木図説』を編纂。この他、『本草細目啓蒙』の著者の小野蘭山も著名。
    .    
    .   B天文学・地理学
    .  
西川如見 徳川吉宗に招かれて江戸へ入り、海外事情を纏めた『華夷通商考』や教訓書『百姓嚢』『町人嚢』、その他『天文義論』などを著す。
志筑忠雄 長崎通詞。ニュートンの弟子ジョン=ケイルの著書を天文・物理学書『暦象新書』として翻訳、初めて地動説を日本に紹介。
高橋至時 麻田剛立の門弟、天文方。渋川春海の貞享暦や安倍泰邦の宝暦甲戌暦に代わる寛政暦を間重富と共に作成。後に渋川景佑が天保暦を発明。
高橋景保 高橋至時の子。蘭書翻訳局たる蛮書和解御用(後の洋学所→蕃書調所→洋書調所→開成所→大学南校)を幕府天文台に創設。
伊能忠敬 高橋至時の門弟。高橋景保の協力の下、量程車を用いて『大日本沿海輿地全図(伊能図)』を作成。長久保赤水は『日本輿地路程全図』。
    .    
    .   C和学(数学)
    .  
吉田光由 伯父の角倉素庵から程大位の『算法統宗』を学び、『塵劫記』を著して和算を確立。なお日本最古の数学書は毛利重能の『割算書』。
関孝和 筆算式代数学を発明、円周率を計算、『発微算法』を著す。死後『括要算法』が出版される。なお沢口一之の『古今算法記』も有名。
    .    
    .   D科学
    .  
平賀源内 髭髯斎。寒暖計やエレキテルを発明、『西洋婦人図』など洋画も描く。大槻玄沢の門弟橋本宗吉はエレキテルを研究、『究理原』を著す。
帆足万里 三浦梅園の条理学を基礎に『窮理通』を著す。帆足万里・三浦梅園に日田で活躍した広瀬淡窓を加えた三人を豊後三大家と言う。
青地林宗 日本初の物理学書『気海観瀾』を著す。この他、『舎密開宗』『菩多尼訶経』を著した化学者(舎密学者)宇田川榕庵も有名。
    .    
X   .   江戸時代の思想
    .  
竹内式部 1758年、公卿に尊皇思想を説いたため重追放(宝暦事件)。1767年の明和事件では連坐して八丈島に配流。
山県大弐 『柳子新論』を著して田沼意次による幕政を批判。後に藤田右門と共に江戸城と甲府城の攻略を謀議、露顕して死刑(明和事件)。
高山正之 三条大橋で皇居を拝む。蒲生君平・林子平らと共に寛政の三奇人とされる。『日本外史』『日本政記』を著した頼山陽同様、勤皇思想を宣伝。
蒲生君平 皇陵荒廃を嘆いて歴代天皇陵の調査・研究を行い『山陵志』を著す。
林子平 琉球・蝦夷地・朝鮮を図示解説した『三国通覧図説』を著す。海防論書『海国兵談』を出版してロシア南下を警告、禁錮。六無斎と号す。
本多利明 経世論者。『西域物語』『経世秘策』を著して開国・貿易・属島開発などを説く。なお経世論は幕政に批判的な経世済民の政治経済論のこと。
富永仲基 懐徳堂出身。思想発達の原則たる「加上の法則」を説き、『出定後語』を著して歴史的見地から儒教・仏教を否定。
遠山景賢 『利権論』を著し、貧乏大名や貧農への官金貸付を提案。この他、『稽古談』『経済談』などで藩営専売を説いた海保青陵も有名。
山片蟠桃 懐徳堂出身、麻田剛立の門弟。升屋の番頭。無神論(無鬼論)を説き、『夢の代』で儒教・仏教・国学を批判、地動説や自由経済政策を主張。
安藤昌益 『自然真営道』『統道真伝』を著して階級制度を批判、原始共産主義的な万人直耕の自然世を訴える。
佐藤信淵 『農政本論』『経済要録』で産業国営化と貿易展開、『宇内混同秘策』で対外進出による垂統国家建設を提唱。水野忠邦に影響を与える。
横井小楠 越前藩主松平慶永の政治顧問。なお佐久間象山は『象山書簡』の中で西洋学術摂取の必要性を主張している。
 
7,江戸時代の文化
 
T   .   概要
    .   江戸時代の文化は、徳川家光の時代である17世紀前期から中期に掛けての寛永期文化と、徳川綱吉により天和の治が為された17世紀末期から18世紀初頭までの元禄文化、そして徳川家斉により大御所時代が展開された19世紀初期の文化・文政時代に於ける化政文化の三期に大別することができる。寛永期文化は桃山文化と元禄文化の折衷であり、その担い手は将軍家や大名、公家や上層町人たちである。鎖国の影響から、後の化政文化と共に第二国風文化と称される元禄文化は遊里の事情に通じた粋な気性を尊ぶ上方の豪商たちが中心の文化であり、それが故に豪放な性格を有する文化だった。化政文化は既に爛熟期を迎えており、徳川家斉の放漫政策や、寛政・天保の改革に伴う規制の強化から、洒落や通を好む刹那的且つ享楽的且つ退廃的な色彩を有していた。
    .    
U   .   建築・彫刻
    .  
日光東照宮 徳川家光が建立した霊廟建築の一種である権現造の建物。陽明門は殊に華麗。なお松永久秀が焼いた東大寺大仏殿は公慶が再建。
修学院離宮 後水尾天皇の数奇屋造の建物。比叡山を背景とした修学院離宮庭園で有名。回遊式の桂離宮庭園を有する八条宮智仁親王の桂離宮も有名。
湯島聖堂 江戸の孔子廟に徳川綱吉が林家の家塾弘文館を移築して聖堂学問所とし、孔子を祀る大成殿を設置。亮賢の護国寺、隆光の護持院も有名。
眠り猫 左甚五郎が日光東照宮にて製作した彫刻作品。なお元禄期には円空が鉈彫の技法で『両面宿儺像』を製作。
    .    
V   .   工芸
    .  
有田焼 伊万里焼。朝鮮出兵の折に帰化した李参平が創始。薩摩焼・萩焼・唐津焼・平戸焼・備前焼・高取焼・上野焼共々、後に藩の専売となる。
京焼 『色絵吉野山図茶壺』で知られる野々村仁清が創始。なお初代酒井田柿右衛門は赤絵の技法を完成し、『色絵花鳥文深鉢』などを残した。
蒔絵 洛北鷹ケ峰に芸術村を創設した本阿弥光悦が『舟橋蒔絵硯箱』を製作。元禄期に尾形光琳が『八橋蒔絵硯箱』を製作して興隆。
友禅染 元禄期に宮崎友禅が創始。これにより元禄模様が施された元禄小袖などが流行。
    .    
W   .   絵画
    .  
住吉如慶 幕府御用絵師を務めたが独創性に欠け次第に衰退。朝廷絵師として宮廷絵預所を世襲した土佐派では土佐光信・土佐光起らが活躍。
狩野探幽 狩野永徳の孫、幕府御用絵師。『大徳寺方丈襖絵』などを描く。『夕顔棚納涼図屏風』を描いた久隅守景は狩野探幽の門弟。
俵屋宗達 装飾画『風神雷神図屏風』を描く。装飾画は元禄期に尾形光琳が『紅梅白梅図屏風』『燕子花図屏風』を描き発展、化政期の酒井抱一が大成。
菱川師宣 肉筆画の浮世絵『見返り美人図』を描く。浮世絵では亜欧堂田善が描いた銅版画『浅間山図屏風』なども有名。
葛飾北斎 風景版画『富嶽三十六景』を描く。幕府が1867年にパリ万国博覧会に出品。歌川広重(安藤広重)も『東海道五十三次』を描き、大成。
鈴木春信 『弾琴美人』などを描き、錦絵(多色刷り版画)を大成。なお役者絵では『市川鰕蔵』『大谷鬼次の奴江戸兵衛』を描いた東洲斎写楽が著名。
円山応挙 写生画『雪松図屏風』を描く。美人画では『ポッピンを吹く女』を含む『婦女人相十品』を描いた喜多川歌麿が有名。なお顔の拡大は大首絵。
司馬江漢 眼鏡絵(左右対称のため凸レンズを用いて観賞する絵)の一種である西洋画『不忍池図』を描く。
渡辺崋山 文人画『鷹見泉石像』を描く。文人画としては清の沈南蘋に写生画を学んだ与謝蕪村が池大雅と共に描いた『十便十宜図』も有名。
松村呉春 松村豊昌。与謝蕪村に南画を学び、円山応挙の影響も受け、弟の松村景文と共に四条派を形成。
    .    
X   .   文学及びそれに類するもの
    .  
浅井了意 仮名草子『東海道名所記』を執筆。寛永期には鈴木正三が『二人比久尼』、如儡子が『可笑記』などの仮名草子を著す。
井原西鶴 八百屋お七を描いた『好色五人女』や『好色一代男』『好色一代女』などの好色物や、『武家義理物語』『武道伝来記』などの武家物、それに『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物を執筆、従来の仮名草子をより享楽的な浮世草子として大成。なお元禄期には貸本屋が出現。
山東京伝 遊里を舞台とした洒落本『仕懸文庫』を著すも、黄表紙『金々先生栄花夢』『鸚鵡返文武二道』の著者恋川春町と共に寛政の改革で罰される。
為永春水 恋愛物の人情本『春色梅児誉美』を著すも、合巻『偐紫田舎源氏』などの著者柳亭種彦と共に天保の改革で罰される。この頃、女房詞も登場。
上田秋成 読本『雨月物語』を著す。読本としては後に滝沢馬琴(曲亭馬琴)が執筆した勧善懲悪文学の代表作『南総里見八犬伝』の方が有名。
式亭三馬 滑稽本『浮世風呂』『浮世床』を著す。滑稽本では十返舎一九が著した弥次郎兵衛・喜多八の話『東海道中膝栗毛』が有名。
大田南畝 蜀山人・四方赤良・寝惚先生とも称される狂歌の名手。『万載狂歌集』を著す。門弟の石川雅望(宿屋飯盛)も有名。
柄井川柳 前句付を発展させて『誹風柳多留(俳風柳樽)』を著し、川柳を創始。天保の改革で弾圧される。
香川景樹 桂園派の祖。和歌はこの他に田安宗武・良寛・橘曙覧らが出て発展。
鈴木牧之 山東京伝の甥の山東京水に挿絵を描かせて随筆『北越雪譜』を完成。菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記』と共に当時の民俗資料として貴重。
松永貞徳 貞門派の祖。談林派の祖である西山宗因と共に室町末期の俳諧連歌から独立した俳諧の発展に貢献。
松尾芭蕉 談林派。「わび」「さび」の境地から蕉風俳諧(正風俳諧)を確立。1689年には門弟の曽良と共に旅立ち紀行文『奥の細道』を制作。また句集『俳諧七部集(芭蕉七部集)』も有名。森川許六・向井去来・服部嵐雪・内藤丈草・志太野坡・越智越人・杉山杉風・立花北枝・各務支考・宝井其角ら蕉門十哲と称される門弟たちと共に俳諧を大成。
小林一茶 俳書『おらが春』の著者。この他、『蕪村七部集』を著した与謝蕪村も有名。
    .    
Y   .   芸能
    .  
坂田藤十郎 規制強化に伴い歌舞伎は阿国歌舞伎→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎→元禄歌舞伎と変遷。初代坂田藤十郎は上方で和事を公演。
市川団十郎 初代市川団十郎は江戸で荒事を公演。なお女形では芳沢あやめが有名。
河竹黙阿弥 河竹新七。『東海道四谷怪談』の作者四代目鶴屋南北の次代の門弟。『白浪五人男』などの白浪物を制作。
竹本義太夫 近松門左衛門が制作した脚本、即ち『心中手網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などの世話物、『国性爺合戦』などの時代物に基づき、義太夫節で知られる人形浄瑠璃(浄瑠璃に合わせ人形遣いが人形を操る演劇)を公演、成功。
近松半二 近松門左衛門の養子、『本朝廿四孝』などを制作。近松門左衛門の門弟竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』などを制作。
都太夫一中 歌浄瑠璃の一中節を創始。この他、常磐津節・清元節・新内節・富本節なども有名。
    .    
Z   .   江戸時代の宗教・社会
    .  
黄檗宗 後水尾天皇から賜った宇治の万福寺を本山として隠元隆gが創始した禅宗。長崎の崇福寺は中国人壇那寺。臨済宗は白隠慧鶴が再興。
日蓮宗 角南重義らの支援の下、日奥が備前国妙覚寺で不受不施派を創始。日蓮正宗・顕本法華宗・本門仏立宗などの受不施派や幕府と対立。
天理教 中山みきが創始。他、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎(赤沢文治)の金光教、井上正鉄の禊教など神道系宗教が興る。いずれも後の教派神道。
寺社参詣 信濃国善光寺、讃岐国金昆羅大権現、安芸国厳島神社、下総国成田山新勝寺、相模国阿夫利神社、下野国日光東照宮など。
伊勢参宮 60年神発説に基づき数百万人が抜け参りとして伊勢神宮に押し寄せる御蔭参りが発生。1867年には三河国から狂乱「ええじゃないか」が発生。
巡礼 四国霊場八十八所・西国霊場三十三所・秩父霊場三十四所・坂東霊場三十三所など。旅の流行の影響で発展。
庚申講 招福除災の集会。観音講・念仏講・地蔵講なども盛ん。この他、ただ日の出・月の出を拝むための日待・月待などの集会もあった。
家元制度 家元・師範・師範代・名取などの文化的階級制度。室町時代に始まり江戸時代に普及。
富突 富籤。江戸三大富突(谷中天王寺・目黒不動・湯島天神)が有名だったが天保の改革で廃絶。現在の宝籤の原型。
 
8,江戸時代の三大改革
 
T   .   享保の改革 [1716年〜1745年/八代将軍吉宗による改革]
    .   @徳川吉宗の将軍就任
    .   紀州藩主徳川光貞の四男松平頼方は慣例として越前国の小藩藩主に就任していたが、長兄徳川綱教・次兄徳川頼職が没し、残る兄一人は夭折していたために紀州藩主に就任し、将軍徳川綱吉の偏諱を受けて徳川吉宗と名乗った。徳川吉宗は伏見宮貞致親王の娘の真宮理子内親王を正妻として娶る一方で藩政改革を断行したが、やがて徳川家継の後継者だった尾張藩主徳川吉通の急死を受け、嫡流への近さと藩政改革の実績を武器に尾張藩主徳川継友・水戸藩主徳川綱条らを退け、将軍に就任した。当時の武士は武陽隠士の著書『世事見聞録』に見られるような借知の影響などで窮乏しており、富裕な庶民が養子縁組の形で幕臣の資格(御家人株)を得ることも珍しくなかった。徳川吉宗はこの状況を「諸事権現様御掟の通り」、即ち徳川家康の治世に回帰させることを目指し、側近政治撤廃・財政再建などの改革を断行した。
    .    
    .   A人材登用
    .   役職に設定されていた役高は人材登用の障害だっていたため、徳川吉宗は禄高と役高との差額を役職に就いている期間のみ足高[たしだか]として支給する足高制を制定、江戸町奉行大岡忠相・勘定吟味役井沢為永・勘定奉行神尾春央らを登用していった。また徳川吉宗は水野忠之を勝手掛老中、加納久通・有馬氏倫・小笠原政登らを御用取次に任命するなど、紀州藩の藩政改革以来の腹心も重く用いた。
    .    
    .   B改革の推進
    .   徳川吉宗は1742年、大岡忠相に命じて下巻103箇条が特に御定書百箇条と称される過去の判例の集大成公事方御定書を幕府の成文法として完成させる一方、裁判事務の停滞を正すと共に直参の経済的困窮を和らげるため、相対済し令を施行して金銭貸借関連の裁判を禁止し、当事者間の示談により処理させた。徳川吉宗は室鳩巣の著書『六諭衍義大意』を用いた風俗矯正や倹約令を断行したため『享保世話』などで皮肉られたが、一方では評定所門前の目安箱に入れられた記名式の目安を元に無料の小石川養生所を設置したり、「いろは」四十七組の町火消の整備を断行したりした。また徳川吉宗は実学を奨励したため1720年には洋書・漢訳洋書の輸入を解禁した。実学者青木昆陽は甘藷(薩摩芋)の研究・栽培を行い、落合孫右衛門は浜御殿で甘蔗栽培に成功した。輸入のみだった朝鮮人参も日光などで栽培が開始された。
    .    
    .   C財政の再建
    .   徳川吉宗は商業統制のため株仲間を公認する一方、経費削減・新規事業禁止・冗員馘首などを断行して支出の抑制に努め、さらに諸大名に1万石あたり100石の八木(米)を賦課する見返りに参觀交替の在府期間を半年とする上米制を定めた。一方、年貢の増収政策としては、坪刈りによる不安定な検見法から毎年一定の定免法への徴税方法変更(後に有毛検見法を併用)、天領租税率の四公六民から五公五民への引上げ、三分一銀納法施行、新田開発などが為された。また1722年には流地禁止令を発令して頼納を禁じたが、出羽国長瀞騒動や越後国高田騒動などの質地騒動を誘発したため翌年撤回された。頼納はこの後黙認されたため、結果的に質流地を集めた村方地主が勃興した。なお徳川吉宗は堂島米相場所の公認の他、米の大量消費を根拠とした酒造制限令や延取引禁止などを断行した。
    .    
    .   D享保の改革の結果
    .   米将軍(米公方)たる徳川吉宗の尽力により幕府財政は潤ったが、米のみが増えて他の商品が増えなかったことによる米相場の低迷、農民や町人の生活水準の向上に伴う労働コストの上昇、そして金貨と銀貨の交換比率の変動などの理由から米価以外の物価が高騰する「米価安の諸色高」という状況に陥った。徳川吉宗はやむなく米価上昇のため享保金銀を発行したが、1732年の享保の大飢饉により米価が暴騰すると今度は1736年に元文改鋳を行って悪質な文字金銀を発行し、結果的に貨幣経済の混乱を助長した。また杓子定規な倹約令に対する反発も強く、尾張藩主徳川宗春などは故意に豪奢な生活を送り、公然と徳川吉宗に反抗した。
    .    
U   .   田沼時代 [1767年〜1786年/金権腐敗政治の典型]
    .   @田沼時代までの過程
    .   徳川吉宗の嫡男徳川家重は言語不明朗だったため、側用人大岡忠光の抬頭を招き、側近政治の風潮が早くも復活した。1753年には木曾川・揖斐川・長良川が集中する洪水地帯の治水工事が薩摩藩により為されたが、この難工事は51名もの藩士の自殺の上に漸く竣工したため、総奉行を務めた家老平田靫負[ひらたゆきえ]はその直後に引責自害した。この宝暦治水事件は後に薩摩藩が猛烈な倒幕運動を展開する伏線となった。やがて将軍徳川家治により1767年に側用人に抜擢され実権を掌握した田沼意次は、この後、商業資本を積極的に利用することによる幕府財政の再建を目指していった。
    .    
    .   A田沼政治
    .   有名な印旛沼と手賀沼の干拓は耕作地の拡大に伴う年貢増収は勿論、銚子・利根川経由で江戸湾へ至る新たな輸送ルートを開くためにも行われたが、1786年の利根川大洪水により頓挫した。また在方株発行による在郷町の商工業の容認や、計数銀貨(表記貨幣)の南鐐二朱銀の発行による貨幣の融合一体化などによる経済の発達を企図したが、効果は稀薄だった。この他、田沼意次は運上金や冥加金を徴収するための株仲間奨励や、銅座・鉄座・真鍮座・朱座・人参座の専売の認可に伴う収入の増加などを図ったが、やはり芳しくなかった。さらに田沼意次は絹糸取引への課税のために武蔵国や上野国に絹糸改会所を設置したが、これは夷屋・白木屋・大丸などの三都商人の反発や物価高騰による一揆を招いたため、挫折した。繰綿の延取引を円滑にするための繰綿延売買会所も整備されたが、やはり価格の高騰や河内国・和泉国の農民の反発などを招いたため廃止された。この他、石灰・明礬・硫黄なども専売制となった。また田沼意次は貿易を促進するために海泊互市新令を緩和する一方、貿易の代金として金銀が海外へ流出することを防止するために俵物や銅による貿易代金支払を定め、金銀は輸入するように仕向けた。一方、工藤平助は1783年にロシア人の動静など北方情勢を詳細に記した『赤蝦夷風説考』を田沼意次に提出したが、これは田沼意次が最上徳内を1786年に千島列島へ派遣することに繋がった。
    .    
    .   B田沼時代の結末
    .   田沼時代には、1772年の江戸の目黒の行人坂の大火や1783年の浅間山大噴火、さらにその火山灰による天明の大飢饉などの、世情を不安定にさせる事件が頻発した。また田沼意次による露骨なまでの賄賂政治は庶民たちの強い反発を受け、幕府の権威は地に堕ちた。そんな折、田沼意次の子で若年寄を務めていた田沼意知が、私怨から佐野政言に殺害されるという不祥事を1784年に起こした。佐野政言は庶民から「世直し大明神」と称えられた。この事件や過度の商業資本の重視による矛盾の露呈、即ち本百姓体制解体の危機や農業労働力の減少や農民闘争の激化などの様々な理由により、老中首座にまで出世した田沼意次の独裁体制は揺らぎ、1786年に徳川家治が没すると同時にあっさりと失脚したのである。
    .    
V   .   庶民の困窮と百姓一揆
    .   江戸時代の三大飢饉、即ち蝗害により西国で1732年に発生した享保の大飢饉、浅間山大噴火に伴う冷害や長雨に伴う水害により東北地方で1782年に発生した天明の大飢饉、冷害・水害により東北地方で1833年に発生した天保の大飢饉は、間引の横行や無宿と称される浮浪者を急増させた。農民たちはこうした状況に対し、百姓一揆で抵抗した。
代表越訴型一揆 若狭国の松木長操、信濃国の多田加助、下総国の木内宗吾(佐倉惣五郎)、上野国の磔茂左衛門ら「義民」が直訴する百姓一揆。
惣百姓一揆 美濃国の郡上一揆(馬場文耕が小説化)、伊予国の武左衛門一揆、中山道伝馬騒動など傘連判を作成して全村民が参加した一揆。
世直し一揆 江戸末期、年貢減免・質流地奪還・地主攻撃などのため発生した百姓一揆。武州一揆を端緒とする慶応の百姓一揆など。
百姓一揆の他、田沼時代からは不正を行う村役人の交代を要求する村方騒動が勃発し、幕末には摂津国・河内国などを端緒として在郷商人が率いる合法的農民闘争たる国訴が発生した。また町人や農民が商人・富農・金融業者を襲撃する打ち毀しは享保年間から発生していたが、天明の大飢饉を受けて1787年に大坂で発生して江戸に伝染した天明の打ち毀しは特に大規模なものとして知られている。なお農村での農業形態は、当初は本百姓が実際に経営する地主手作が主流であったが、享保年間からは次第に労働コストの高騰により行き詰まり、高額の小作料に依存する寄生地主が勃興した。
    .    
W   .   寛政の改革 [1787年〜1793年/松平定信による改革]
    .   @松平定信の実権掌握
    .   御三卿筆頭田安宗武の七男松平定信は白河藩主松平定邦の養子として家督を継ぎ、『凶荒図録』に描かれている天明の大飢饉に於いても藩内で餓死者を一人も出さない程の優れた藩政を執行していた。徳川家治の逝去後に将軍職を継承した徳川家斉は父の一橋治済の推薦により松平定信を老中首座に任じ、さらに将軍補佐役として強権を与えた。実権を掌握した松平定信は政策立案者たる本多忠籌や政策執行者たる松平信明らを抜擢し、一橋治済の協力の下、農村復興・公儀権威回復・商業資本抑圧・階級闘争鎮静化・財政再建などを主要目標とした抜本的改革を断行した。
    .    
    .   A社会改革
    .   松平定信は農村の人口確保のため旧里帰農奨励令を、物価調整のため物価引き下げ令を発令したが、効果は薄かった。さらに直参の借金地獄を緩和するべく棄捐令を発令して江戸の札差での6年以上の借金の帳消しと5年以内の借金の低利償還を定めたが、札差には江戸の商業資本家で構成される猿屋町貸金会所からの見返り融資が実行されたため、寛政の改革では完全な商業資本抑圧が為された訳ではない。この他、松平定信は非常用に町入用節約分の70%を町会所に積み立てて貧民救済や災害復興に充てる七分積金制度や、諸藩に1万石あたり50石の籾米を備蓄させる囲米制度、義倉・社倉・常平倉など穀物を備蓄させるための三倉の設置、などを行う一方、火付盗賊改長谷川平蔵(鬼平)からの建議を容れて江戸の石川島に人足寄場を設け、無宿たちに正職に就くための技術を学ばせた。
    .    
    .   B思想統制・風俗矯正
    .   寛政の三博士の進言を受けた松平定信は1790年に寛政異学の禁を施行し、朱子学を正学、他の儒学を全て異学と定めて異学を禁止する一方、1797年には聖堂学問所を官立の昌平坂学問所(昌平黌)に改め、朱子学のみを教えるようにした。なお寛政異学の禁は大学頭林信敬により施行されたが、実際に推進したのは林述斎である。一方で松平定信は、1792年に林子平の著作物の出版を禁止して思想の弾圧を行うと共に、洒落本・黄表紙などを風俗矯正のために取り締まった。
    .    
    .   C寛政の改革の結果
    .   寛政の改革は田沼時代への反動として発生した復古的理想主義に基づく政治だった。財政的には一応以前の深刻な状態からの脱却に成功したが、厳しい倹約令や風俗矯正は民衆の不満を招いた。太田南畝らの「世のなかにか程うるさきものはなしぶんぶといふて夜も寝られず」「白河の清きに魚の住み兼ねてもとの濁りの田沼こひしき」という狂歌は、これを端的に示している。光格天皇が父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈る際に反対した尊号一件(後に慶光院の尊号が贈られた)や、徳川家斉が父の一橋治済を大御所として江戸城に迎える際に反対した大御所問題などで将軍徳川家斉に睨まれた松平定信は隠居に追い込まれたが、本多忠籌・松平信明らは「寛政の遺老」として老中に止まり改革を続けていった。白河楽翁こと松平定信の著作としては、『花月草紙』や自叙伝『宇下人言』が知られている。
    .    
X   .   大御所時代 [1793年〜1841年/放漫政治の典型]
    .   @大御所政治の展開
    .   1793年の松平定信の隠居により実権を掌握した徳川家斉は1837年に子の徳川家慶に将軍職を譲位した後も実権を保持し続け、1841年の死没まで大御所として君臨した。徳川家斉が幕政の実権を掌握していた時期を大御所時代と言うが、この時期の政治は「水のでてもとの田沼になりにけり」と称された側用人水野忠成らの抬頭も影響して総じて放漫政治であり、それが故に化政文化が開花したものの享楽化が進行し、社会不安増大が増大した。百姓一揆や打ち毀しは以前にも増して多発したが、徳川家斉はこれにより寺社領や旗本領などが入り組んでいる関東地方の治安が悪化することを防ぐため、1805年には勘定奉行の配下に関東取締出役(八州廻り)を新設し、その配下に50ヵ村程度で構成される寄場組合を設置して、治安維持に当たらせた。寄場組合は寄場役人と言う名主により仕切られた。
    .    
    .   A大御所政治の結果
    .   従来の物価高騰に加え大御所時代には史上空前の規模を誇る天保の大飢饉も発生したため、三河国の加茂一揆、甲斐国の郡内一揆、陸奥国の嘉永三閉伊一揆、近江国の三上山騒動などの百姓一揆が多発した。徳川家斉は対策として江戸に御救小屋を設置して貧民の救済にあたった。また1837年には家塾洗心洞で陽明学を講じていた元大坂町奉行与力の大塩平八郎(大塩中斎)が天保の大飢饉に対する幕府側、就中大坂町奉行跡部山城守(水野忠邦の兄)の無為無策に憤慨し、蔵書を売却した金を庶民に分配すると共に同志を募り、大塩の乱を起こした。大塩の乱の後も、越後国柏崎代官所を平田篤胤の門弟生田万が「大塩門弟」を称して襲撃した生田万の乱や、摂津国にて「徳政大塩味方」を称する農民が蜂起した能勢一揆などが勃発した。また財政窮乏に喘ぐ大名たちの間でも、徳川家斉が自らの55人もの子女のうち娘を嫁がせており血縁関係にある加賀藩前田家など一部の大名のみを贔屓したために、他の諸藩は幕府に反発した。結果的に大御所政治は幕府権威の失墜を招いたのである。
    .    
Y   .   天保の改革 [1841年〜1843年/水野忠邦による幕政改革]
    .   幕政刷新を訴える『戊戌の封事』を水戸藩主徳川斉昭から提出された将軍徳川家慶は、水野忠成を退けると共に大坂城代・京都所司代などを歴任していた浜松藩主水野忠邦を老中に抜擢した。佐藤信淵・大蔵永常・二宮尊徳らを登用した水野忠邦は絶対主義への傾斜や内憂外患などの理由から「当御代思召次第」と称される強圧的改革を断行、綱紀粛正・農村復興などを推進した。まず庶民に対しては荒井顕道の『牧民金鑑』に掲載されている人返しの法や贅澤な料理などを厳禁した倹約令を施行する一方、合巻・人情本の刊行禁止、江戸歌舞伎芝居小屋の浅草山之宿強制転居、役者の旅興行禁止などを断行した。経済面では印旛沼干拓を継続する一方、棄捐令を下して借金の半分を幕府の公金支出により相殺した。また十組問屋仲間などによる流通の独占打破と幕府の直接統制による物価引下げを図って株仲間解散令を1841年に施行したが、実際の物価高騰の要因は悪貨発行・凶作・飢饉などだったため効果が稀薄だった上に流通の混乱を招いたため、1851年には株仲間再興令が施行された。やがて水野忠邦は1843年、領地整理や海防政策のため江戸・大坂周辺十里四方を天領とする上知令(上地令)を発令したが、これは老中土井利位[どいとしつら]ら大名・旗本の猛反発を受け、失脚に追い込まれた。結局、天保の改革の頓挫は幕府の権威と権力を再起不能なまでに失墜させたのである。
    .    
Z   .   天保の藩政改革
    .   @天保以前の藩政改革
    .   江戸中期以降『経済録拾遺』に記されているような財政窮乏に苦しみ始めた諸藩は、財政再建・新田開発・殖産興業・特産品専売制などの実施を柱とした藩政改革を行うようになった。熊本藩主細川重賢が堀平太左衛門の補佐で行った宝暦の改革や、米沢藩主上杉治憲(上杉鷹山)が莅戸善政や細井平洲を用いて断行した藩政改革、秋田藩主佐竹義和が疋田定常や大越範国を用いて行った改革などが挙げられる。
    .    
    .   A薩摩藩の藩政改革
    .   島津重豪の下で財政担当家老を務めた調所広郷[ずしょひろさと]は、薩摩藩が大坂商人などから借りていた500万両を250年間もの長期年賦返済として事実上踏み倒す一方、琉球との密貿易や奄美三島(奄美大島・徳之島・喜界島)で栽培されていた黒砂糖の専売などを断行し、財政を立て直した。調所広郷による改革の功績は海老原雍斎が著した『薩摩天保以後財政改革顛末書』に記されている。島津重豪の次代島津斉彬は軍制改革を行い薩摩藩軍の近代化を図る一方、反射炉・造兵工場・ガラス製造工場を完備した藩営洋式工場群たる集成館を磯ノ浜に建設した。父の島津久光に補佐された島津忠義は、集成館に鹿児島紡績所やガス灯製造所を増設する一方、鹿児島紡績所の分工場として堺紡績所を建設した。
    .    
    .   B長州藩の藩政改革
    .   江戸中期に藩主毛利重就が撫育局を設置して殖産興業を推進していた長州藩では、天保年間の直前から他の藩に倣い特産品の紙や臘を産物方にて専売したが、1830年には専売に反対する防長大一揆が勃発したため中止した。藩主毛利敬親の下で藩政改革に当たった村田清風は、まず37ヶ年皆済仕法により140万両(銀8万5千貫)もの借金問題を解決し、続いて他国廻船の積荷(越荷)を抵当として委託販売業や金融業を行う越荷方を設置し、その利益を元に軍拡・近代化を推進した。
    .    
    .   C土佐藩・肥前藩の藩政改革
    .   土佐藩主山内豊煕は馬淵嘉平ら下級武士開明派の「おこぜ組」を登用して抑商政策や緊縮財政政策を断行したが、失敗した。次代の山内豊信(山内容堂)は、それまでの藩政改革失敗の罪を全て「おこぜ組」に着せてこれを弾圧する一方、吉田東洋を登用して彼の献策である木材・和紙などの専売化を自案の如く推進した。一方、江藤新平らに支えられた肥前藩主鍋島直正(鍋島閑叟)は有田焼の専売などで逼迫財政を立て直すと共に、均田制を施行して小作人の本百姓化を図った。また日本初の反射炉を築造し、1850年にはやはり日本初の洋式大砲を佐賀藩大砲製造所にて鋳造した。これより後、肥前藩は軍備の近代化を急速に推進していった。
    .    
    .   D水戸藩の藩政改革
    .   水戸藩主徳川斉昭は水戸学を奨励して尊皇攘夷思想を重視する一方、会沢正志斎や藤田東湖を登用して蒟蒻・紅花などを専売化して財政を再建し、反射炉築造・鉄砲鋳造による軍備増強を推進した。なお1854年には幕命により石川島造船所を開いた。この他、安芸藩・福井藩などが藩政改革に成功し、前述の各藩と共に雄藩となった。また田原藩では家老渡辺崋山が大蔵永常を藩物産掛に登用するなどの改革を行った。
 
9,鎖国の崩壊と幕府倒壊の序曲
 
T   .   ロシアの接近
    .   ロシアは啓蒙専制君主カザリン2世の下、南進政策を展開していた。1792年に伊勢国の船頭大黒屋光太夫を連れて根室へ来航したラックスマンは日本に開国と通商を要求したが、松平定信はこれを拒否する一方、松前奉行に長崎回港許可状たる信牌を交付させて帰国させた。1804年にはアレクサンドル1世の命を受けたレザノフが信牌を持参して長崎に来航したが、幕府は鎖国を「祖法」として開国を拒絶したため、憤慨したレザノフは日本沿岸で略奪行為を行った。このため徳川家斉は、外国船に薪・水・食料を与え迅速且つ穏便に退去させる文化薪水給与令(文化撫恤令)を1806年に発令した。1811年には露人ゴローウニンが国後島で日本側に逮捕されるゴローウニン事件が発生したが、これはロシアが報復として拿捕した淡路国の廻船問屋高田屋嘉兵衛と『日本幽囚記』を著したゴローウニンを交換して決着した。このロシアの接近に対し、幕府は近藤重蔵を千島に派遣して択捉島カムイワッカオイに「大日本恵土呂府」の標柱を設置させたり、伊能忠敬に蝦夷地沿岸を測量させたりした。なお樺太とその対岸の東韃[とうだつ]を探検して後に『東韃紀行』を著した間宮林蔵は、間宮海峡の発見者である。
    .    
U   .   英帝国主義の台頭
    .   世界初の産業革命を成し遂げた英国は植民地拡大の侵略戦争を展開した。1808年にはナポレオン戦争の影響から英船フェートン号が蘭船を追跡して長崎港内に無断侵入し、これを逃した長崎奉行松平康英が引責自殺するというフェートン号事件が発生した。また1818年には英人ゴルドンが浦賀に来航し、1824年には英捕鯨船員が常陸国大津浜と薩摩国宝島に無断上陸するという事件を起こした。この情勢を受けた幕府は1825年、外国船を躊躇せず砲撃させる無二念打払令を発令する一方、高島秋帆に徳丸ヶ原練兵を行わせたり、韮山代官江川英龍に反射炉を築造させて大砲鋳造を断行するなどして、自衛力の増強に努めた。しかしアヘン戦争での英国勝利を受けた水野忠邦は1842年、無二念打払令を改め文化撫恤令に準ずる天保薪水給与令を制定する一方、琉球開国を示唆して英国を懐柔した。なお英国は太平天国の乱やセポイの乱で民族主義の抵抗の激しさを悟り、外圧を緩和した。一方、蘭王ウィレム2世は欧米の情勢を根拠として1844年に徳川家慶に対して開国を勧告したが、老中首座阿部正弘はこれを拒絶した。
    .    
V   .   蘭学への弾圧
    .   1828年に天文方高橋景保も関与したシーボルト事件が発生すると、徳川家斉は最盛期を迎えていた蘭学の弾圧を強化した。オリファント社の米商船モリソン号が1837年に浦賀沖と山川沖で駆逐されたモリソン号事件に対し、知識人団体尚歯会傘下の蘭学者団体蛮学社中の構成員、即ち『戊戌夢物語』の著者高野長英や『慎機論』『鴃舌小記[げきぜつしょうき]』の著者渡辺崋山、それに小関三英らは激しく非難したため、徳川家斉は1839年に目付鳥居忠耀[とりいただあき](鳥居耀蔵;林述斎の子)に命じて彼らを処罰した(蛮社の獄)。なお高野長英は凶作対策として早蕎麦と馬鈴薯の栽培を提唱した『救荒二物考』の著者である。
    .    
W   .   日米和親条約 [1854年/鎖国体制の崩壊]
    .  

ゴールド=ラッシュの終焉により太平洋の侵略を開始した米国は、捕鯨や中国貿易の基地を求め日本に接触して来た。阿部正弘は東インド艦隊司令長官ビッドルが1846年に浦賀へ来航した際には開国を拒否したが、ビッドルの後任ペリーはサスケハナ号・ミシシッピ号・プリマス号・サラトガ号という4隻の「黒船」を率いて1853年に浦賀へ来航して久里浜に上陸し、浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に第13代大統領フィルモアの国書を突付けた。この際の「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四はいで夜も眠れず」との狂歌は有名である。国書を受けた阿部正弘は、島津斉彬・伊達宗城・徳川斉昭ら諸大名や朝廷と善後策を協議して自由貿易の拒否を条件とした開国を決定し、1854年に再来したペリーと林復斎の間で日米和親条約(神奈川条約)を締結させた。内容は、下田・箱館の開港、薪・水・食料の米国船への供給、難破船乗組員の救助、米国への最恵国待遇などだったが、同様の内容の日英和親条約や日蘭和親条約も締結された。またロシアのプゥチャーチンは1853年に長崎に来航し、下田で川路聖謨との間に日露和親条約を締結したが、この内容は日米和親条約に準ずるものの他、千島列島での日露間の国境を択捉島・得撫島間と定め、樺太を両国の雑居地とすることを含んでいた。

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X   .   安政の改革
    .   老中首座の阿部正弘は日米和親条約を締結するのに際し、朝廷に奏上したり有力大名の意見を聞いたりしたため、結果的に幕府独裁体制が終焉した。また欧米の接近を目の当たりにした阿部正弘は米国への漂流経験を持つ中浜万次郎(ジョン万次郎)らを登用し、武家諸法度の大船禁止条項を削除する一方、1855年には後の幕府海軍の前身となる海軍伝習所を長崎に、翌年には幕府陸軍の前身となる講武所を築地に開設し、国防体制を整備していった。海軍伝習所は勝海舟や榎本武揚を輩出した機関である。
    .    
Y   .   将軍継嗣問題
    .   徳川家定(徳川家祥)は病弱で嗣子が望めず、後継者争いを招いた。息子の一橋慶喜を推す徳川斉昭は阿部正弘・島津斉彬・毛利敬親・山内豊信・鍋島直正・松平慶永・伊達宗城ら有力大名と共に一橋派を形成し、徳川慶福を推す彦根藩主井伊直弼や将軍側近ら南紀派と対立した。阿部正弘の死去により1857年には佐倉藩主堀田正睦が老中首座に就いたが、米総領事ハリスの軍事的圧力に負けて朝廷に条約勅許を奏上したものの岩倉具視の活躍で勅許は下らず、将軍継嗣問題解決にも失敗したため失脚した。
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Z   .   日米修好通商条約の締結 [1858年/不平等条約]
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大老井伊直弼は1858年、井上清直・岩瀬忠震とハリスの間に日米修好通商条約を違勅調印させた。内容は下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と領事館設置、貿易章程に基づく協定関税制度、領事裁判権受諾などであり、日米和親条約と同じく蘭・英・仏・露とも同様の条約を締結した。安政の五ヶ国条約では領事裁判権と言う治外法権を欧米に与えている上、協定関税制度のために関税自主権も無かった。なお神奈川は東海道沿いだったため横浜が開港し、下田はその半年後に閉鎖された。また京都に近いため兵庫開港勅許は下りず、1867年になって漸く神戸港として開港した。井伊直弼は1860年に日米修好通商条約批准書交換のため正使新見正興と副使村垣範正をポーハタン号に乗船させてロアノークへ向かわせたが、同行した幕府護衛艦咸臨丸(艦長;勝海舟、司令官;木村喜毅)は日本初の太平洋を横断した軍艦である。なお福沢諭吉は木村喜毅の従者として同行した。一方、ロシアは1861年に対馬占領事件を起こして対馬列島の植民地化を図ったが、この愚挙は英国により阻止された。

    .    
[   .   江戸末期の貿易
    .   米国では南北戦争が勃発したため、貿易相手国筆頭は英国となった。貿易の約8割は横浜港で為された。輸出品としては生糸・茶・蚕卵紙・海産物・金・銅、輸入品としては73,8%を占めた毛織物・綿織物の他、武器・艦船などの工業製品が挙げられる。需要の増大に伴い上野国・信濃国の製糸業や駿河国・山城国の茶の栽培などでは経営の近代化が進み、農村にも工場制手工業(マニュファクチュア)が導入された。これを受けた在郷商人は江戸の問屋を通さず絹の道(八王子〜横浜;日本のシルクロード)などを利用して絹糸を横浜へ送り、原善三郎・茂木惣兵衛ら売込商に直接品物を売却するようになったため、幕府は問屋救済と流通統制のため1860年に五品江戸廻送令を発令し、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の江戸問屋経由を義務付ける一方、株仲間再興令により問屋を救済した。また外国の金銀交換比が1:5で日本が1:15だったため50万両もの金が国外へ流出したが、幕府はこの金銀比価問題への対策として1860年に万延改鋳を行い、質の悪い万延小判を発行した。だがこれは、1867年まで続いた輸出超過による国内物資不足と相俟って物価暴騰を招き、消費生活者を困窮させた。また輸入織物の流入は国内の綿工業に打撃を与えた。物価暴騰は1866年の第二次長州征伐で頂点に達し、1867年には慶応の百姓一揆・打ち毀しなどの世直し運動が展開された。
 
10,江戸幕府の潰滅
 
T   .   安政の大獄 [1859年/反体制派への弾圧]
    .   徳川慶福改め徳川家茂を将軍に就任させ安政の五ヶ国条約を違勅調印した井伊直弼は、腹心の老中間部詮勝に命じて自身に反抗的な勢力への大弾圧を断行した。この安政の大獄では、1854年のペリー再来時に密航を企て萩の野山獄に幽閉されたものの出獄後に松下村塾を創設して高杉晋作・久作玄瑞らを教育した吉田松陰を初め、橋本左内・頼三樹三郎・梅田雲浜ら尊皇攘夷論者が処刑され、徳川斉昭・山内豊信・松平慶永ら諸大名のみならず三条実万・近衛忠煕・鷹司政通・青蓮院宮(中川宮朝彦親王)などの貴族までもが処罰された。この安政の大獄への反発として翌1860年には水戸浪士ら18名が登城途中の井伊直弼を襲撃して殺害するという桜田門外の変を起こした。幕府はこの事件の後に公武合体政策へと大きく傾くが、既に幕府の権威は失墜していた。
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U   .   安藤・久世政権
    .   井伊直弼が桜田門外の変で殺害された後、幕政の実権は公武合体論者の老中安藤信正・久世広周が掌握した。安藤信正らは将軍徳川家茂に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王を降嫁させることを上奏したが、孝明天皇は和宮親子内親王が有栖川宮熾仁親王[ありすがわのみやたるひとしんのう]との結納を既に済ませていた上、自身が大の討幕派であるためにこれを拒絶したが、やがて幕府の攘夷実行を条件に降嫁を許可した。しかし世の尊皇攘夷派はこれに猛反発し、大橋訥庵[おおはしとつあん]に煽られた水戸浪士が安藤信正を襲い重傷を負わせた。この坂下門外の変により安藤信正は失脚し、久世広周も辞職したために政治的空白が発生した。
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V   .   寺田屋事件と文久の改革
    .   島津久光は公武合体論による幕政改革を断行するべくまず上洛し、伏見の寺田屋にて薩摩藩内の尊攘派志士筆頭有馬新七を討伐して薩摩藩のイデオロギーを公武合体論に統一した後、公卿大原重徳[おおはらしげとみ]と共に江戸城に下向し、文久の改革を指導した。この改革では兵賦令を制定して旗本領からの農兵取り立てを行う一方、一橋慶喜を副将軍たる将軍後見職、松平慶永を大老格の政事総裁職、会津藩主松平容保を京都守護職に任じ、これらを幕政補強機関として公武合体策の推進を図った。文久の改革に対し長井雅楽[ながいうた]が提唱する公武合体論の航海遠略策を退けて尊攘論が勃興してきていた長州藩の下級武士たちは反発し、急進派の公卿三条実美らと共に京都の政局を掌握した。
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W   .   攘夷運動の激化
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米通訳官ヒュースケンが1860年に殺害されたことを皮切りに、1861年には『大君の都』の著者である英駐日公使オールコックが東海道を旅行したことに憤慨した水戸浪士が高輪の東禅寺の英国公使館を襲撃するという第一次東禅寺事件を起こし、翌1862年には英国公使館を警備中の松本藩士伊藤軍兵衛が公使館員を殺害した後自殺するという第二次東禅寺事件が発生した。また高杉晋作と久坂玄瑞は同年、夷人狩りとして品川移転直後の英国公使館を焼討した。攘夷論が高揚を見せる中、徳川家茂は攘夷実行を1863年5月10日と定めて孝明天皇に上奏すると共に、諸藩に対しても公布した。なおオールコックは1862年のロンドン万国博覧会に日本の品物を出展している。

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X   .   下関事件 [1863年/下関戦争へ発展]
    .   長州藩士桂小五郎・高杉晋作は期日通り下関にて米・英・仏・蘭の船舶に対して砲撃を実行した。高杉晋作は下関の豪商白石正一郎の協力の下で庶民混成の奇兵隊を組織したが、オールコックの指揮による翌1864年の下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)では完敗を喫した。なお長州藩士の井上聞多と伊藤俊輔は、英国留学から帰国した後に藩内の攘夷派を説得したため、伊藤俊輔は反対派に襲撃され重傷を負った。
    .    
Y   .   生麦事件 [1862年/薩英戦争へ発展]
    .   文久の改革を終えて帰国する島津久光の行列が東海道の生麦に差し掛かったところ、リチャードソンら数名の英人がこの行列を下馬の礼を執ることなく横断した。護衛の薩摩藩士たちは彼らを無礼討ちにしたが、英国は薩摩藩と幕府に対して加害者の引き渡しと賠償金支払いを要求。幕府は賠償金を支払ったが薩摩藩は頑強に拒否したため1863年、英艦による鹿児島砲撃を招いた。この薩英戦争により薩摩藩は英国に賠償金を支払うと共に、攘夷不可能を悟って逆に英国に接近していった。
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Z   .   文久の政変 [1863年/攘夷運動、崩壊へ]
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攘夷運動の衰微を危惧した中川宮朝彦親王を中心とする尊王攘夷派は、孝明天皇のための大和行幸や伊勢行幸を企て、同時に討幕計画も練った。計画は孝明天皇親征攘夷にまで発展したため公武合体派の薩摩藩は激しく反発し、文久三年八月十八日の政変(文久の政変)を起こして尊皇攘夷派の長州藩士らを京都から追放すると共に、朝廷の三条実美・沢宣嘉[さわのぶよし]・東久世通禧[ひがしくぜみちとみ]・中山忠光ら急進派公卿を長州藩へ追放した。これを七卿の長州落ちと言う。この後、京都は公武合体派雄藩の合議機関たる参預会議が掌握したが、横浜鎖港問題への対応に失敗したため崩壊した。

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[   .   攘夷運動の終焉
    .   1863年には中山忠光を擁した吉村寅太郎・伴林光平・藤本鉄石ら天誅組が大和五条で天誅組の乱を、また沢宣嘉を担いだ平野国臣は但馬国で生野の変をそれぞれ勃発させたが、鎮圧された。また藤田小四郎・武田耕雲斎らは常陸国筑波山にて尊皇攘夷を主張して天狗党の乱を起こし京都を目指したが、目付井伊意尊[いいおきたか]に潰された。翌1864年には近藤勇・土方歳三・沖田総司ら幕府側の新撰組が尊攘派の拠点である三条河原町の池田屋を襲撃した(池田屋事件)。これに反発した久坂玄瑞ら長州藩士と真木和泉ら尊攘派志士は京都に侵攻したが、薩摩藩・会津藩・桑名藩など京都を警護していた幕府軍の前に敗退した(禁門の変・蛤御門の変・元治甲子の変)。なお新撰組は清川八郎の新徴組と言う浪士組の流れを汲むものである。この頃活躍した尊攘派の人間、即ち山内容堂に処刑された武市瑞山や岡田以蔵を初め、梁川星巌・野村望東尼・大国隆正らを、特に草莽の志士と言う。
    .    
\   .   薩長連合 [1866年/討幕体制の確立]
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禁門の変の責任追及という名目で、幕府は下関戦争の直後の1864年に第一次長州征伐を実行し、長州藩に謝罪させた。海援隊(元は亀山社中)の坂本龍馬と陸援隊の中岡慎太郎(武市瑞山創設の土佐勤皇党党員)は、共に攘夷の無謀を悟った薩長両藩に働き掛け、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩の木戸孝允を密会させ、尊皇討幕論を基盤とする薩長連合を結成させた。これに刺激された徳川家茂は第二次長州征伐を断行したが、薩摩藩が幕府軍から離脱した上に長州藩は薩摩藩経由で英国から入手したミニエー銃・ゲベール銃などの新式歩兵銃を奇兵隊などに装備させていたため幕府軍は苦戦し、徳川家茂の大坂城での急死を契機として敗走した。高杉晋作はこの直後に病死した。また『船中八策』を著して公議政体論(天皇中心の雄藩連合政権の樹立)を主張した坂本龍馬は、中岡慎太郎共々京都で1867年に暗殺された。またこの戦いの後に奇兵隊のような諸隊が全国にて結成され、幕府に対し蜂起した。

    .    
]   .   大政奉還 [1867年/徳川幕府の終焉]
    .   孝明天皇崩御後に践祚した睦仁親王(明治天皇)は、攘夷論を退けて兵庫開港勅許を下した。また岩倉具視は三条実美と共に討幕計画を練り、薩摩藩・長州藩・安芸藩の協力を取り付け、やがて1867年10月14日には薩長両藩に討幕の密勅が下った。一方、征夷大将軍に就任した徳川慶喜は薩長連合を支援した英駐日大使パークスに対抗するべく幕府を支援した仏駐日大使ロッシュの助言の下、内閣制度を真似て国内事務局・外国事務局・陸軍局・海軍局・会計局といった五局を設置し、各局総裁に老中を就任させて幕政を改革した。この頃、京都では島津忠義・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂が四侯会議を開催して薩摩藩と幕府の融和を図ったが決裂した。利己主義者山内容堂は薩長連合が武力討幕を果たして土佐藩が冷遇されることを恐れ、坂本龍馬から後藤象二郎を経て献策されていた大政奉還を10月14日に徳川慶喜に建議した。徳川慶喜は翌日これを受諾して朝廷に奏上したが、薩長両藩は大政奉還を阻止するべく12月9日に摂関廃止・三職設置・諸事神武創業の昔への復帰などからなる王政復古の大号令を発表し、有栖川宮熾仁親王を総裁、三条実美・島津忠義・毛利敬親・山内豊信・浅野長勲・松平春嶽・徳川慶勝らを議定、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀・木戸孝允・広沢真臣・後藤象二郎・福岡孝弟らを参与に任命した。三職は同日夕刻より京都御所内の小御所にて小御所会議を行い、紛糾した議論の結果、徳川慶喜の辞官納地、即ち征夷大将軍と内大臣の辞任と天領返還が定められた。これにより実質的に徳川幕府は終焉したが、徳川慶喜は大坂城に籠城して抵抗する構えを見せた。
 

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